工場や事業所でゴミゼロ運動に取り組むのはとてもよいことです。環境問題の基本は使うものやエネルギーを減らし、ゴミを減少することにあるからです。そして、ゴミゼロ運動をしている人の一部は本当にゴミを減らしたいと思っているでしょう。しかし、本当にゴミをゼロにするのはとても難しいことというより、科学的にも絶対に不可能なことなのです。
その理由の第一は、この世の中の物質やエネルギーは熱力学的な原理によって支配されるので、「何か活動して後に残さない」ことができないからです。家庭で生活をしていてもお茶碗を一つ洗うにも水道や洗剤がいります。水道の水は二度は使えませんし、洗剤をもう一度使うことはできません。夜、寝ていても汗をかきます。汗は人間が活動するのに必要な体温を保っためですし、汚れは人間の活動の「カス」のようなものです。
もちろん、製造現場である製品を作ろうと思えば、電力もいりますし、パソコンを動かさなければなりません。普通は原料の他に補助的な材料も使います。
仮にどう見ても何も残さないで、ある活動をしているように思う例の場合には、「物質とエネルギー」を総合して計算するとその内容がわかります。石油という物質を物質として使えば形のあるものになりますが、ガソリンとして使えば人間の目には見えないものですが、結果として「二酸化炭素」という物質が出ます。物質とエネルギーは相互に交換することができますので、見かけ上、物質が少なく見えることもあるのです。
このような物質とエネルギーの交換関係を使って物質量を減らした場合には、物質を消費するよりも全体的な使用量はかえって増大するというのが原則です。また、ゴミを工場の中で焼却したり、人間の目に見えないほど小さい粉末にして大気に放出しても、それをもって「ゴミを減らした」ということはできません。

自動車のタイヤは使用中にタイヤのゴムの平均一五%が粉となって大気に放出されます。新品のタイヤが一〇キロであるとすると、一般に廃棄されるクイヤの重量は八・五キロになっていて、軽くなった一・五キロは道路との問の摩擦で削り取られ、大気に細かい粉末となって飛散します。
「走る」という活動に伴うもので避けることはできません。それが「目に見えない」からといって健康に良いわけではありません。
第二の理由は、現実的に現在のシステムそれ自体がゴミを発生せずに活動することができないようになっています。製造工程では原料に対して製品が一〇〇%できるプロセスはなく、その割合を示す「歩留(ぶど)まり」をどの程度まで高められるかが企業間の競争になっているのです。
工場で使用する溶液、つまり水などの使用はずいぶん改善されました。最近では環境関係の技術が進歩して、かつては使い捨てをしていた水なども、工場内でほとんど完全に回収し再使用しているところもあります。
しかし、工場内で発生する水を完全に回収再使用することはできますが、そのためには回収設備と、その設備を動かすには人手、エネルギー、そして平均的には三%ほどの修繕費用が毎年必要です。工場の中で水を循環するのは環境に良いといってもいいでしょうが、水道局でボンプに使う電力、下水道局で行う集中処理場の環境負荷とどちらが社会全体からみた場合優れているか、という問題に帰着します。もし、「自然の力を借りる方が環境に良い」という論理にしたがえば、工場内で水を循環するより、山に降る雨をできるだけ多く利用するべきということになり、工場内で水を循環することは環境負荷を増大させることを意味します。ここ二〇年ほど、日本の工場は行政の指導や社会からの糾弾を受けるので、工場内の水を循環するようになりました。その結果、工場が使用する電力や設備は増大し、日本全体の環境の大きな負荷になっています。
果たして、私たちが二〇世紀に築いた「大量生産の社会常識」にしたがうことが本当に環境に良いのでしょうか?
つまり、工場内で人手がかかればそれだけ環境に負荷をかけますし、電力は石油をたいて作り、送電し、変電して工場に来ます。また機械の修繕には人手、交換部品、消耗材料が必要です。つまり、工場内の水を回収するということは環境に悪くないのですが、それは「ゴミゼロ」とか「ゼロ・エミッション」とかいう行為やシステムではなく、環境的には単に「消耗品から設備へ」「電力から人手へ」というような「帳簿のつけかえ」に過ぎないということも考える必要があるのです。
リサイクルが現代の日本ほど熱心に行われていない時代には、真面目で効率的な「回収系」が多く採用されました。それは本当に環境に良いものだったのです。しかし最近では、「環境のために無理して行う回収系」も現れてきました。とにかく世間の目が厳しいので、本当は環境の負荷を増やすことがわかっているのに回収系を作る、などの例がこれに当たります。
そこまで追いつめると、「ゴミゼロ運動というのは精神的な活動だ」といわれることもありますし、また、まずは「目に見えるゴミをできるだけなくす」という程度のものだとされることもあります。
あるとき、「ゴミゼロ」とか「 ゼロ・エミッション」というときの「ゼロ」というのはどの程度の幅を持っているのかを聞いたことがあります。それはある放送局が本格的に「ゴミゼロ」の報道をしたので、その放送局に、「どの程度のことをゴミゼロというのですか。そのときの『ゼロ』というのは五〇%程度ですか、それとも一〇〇%ですか」と問い合わせたところ、実際にどの程度ゴミがそこから出ているのか、記者は取材していないということでした。「ゼロ」というのは数字ですから、ひとこと「どのくらいですか?」と聞けば終わりです。
このような運動が本当に善意で行われ、日本の将来のためになるなら、何も目くじらをたてる必要はありません。しかし、ある会社や研究所、あるいは国の機関が「ゴミゼロ」、あるいは「ゼロ・エミッション」ということで、国や自治体の覚えがめでたくなり、その結果、補助金をいただいたり、便宜を図ってもらったりしているとすると、それは問題です。
そして、環境を心配する善意の第三者は、ゴミゼロ計画が「ゴミを本当にゼロにしようと努力している」と思うでしょう。また、国の税金をその活動に交付することを決めた人も「実施者がゴミをゼロにするつもりである」と考えたでしょう。「ゴミゼロ」が「ゴミを増やすことだ」と思っているとは誰も信じないからです。
すでに多くの税金が「ゴミゼロ」または「ゼロ・エミッション 」に費やされています。この事業が、工場の外に「ゴミの帳簿をつけかえた」のではなく、現実的にゴミをゼロにできたのか、そろそろ調べる時期のようにも思います。社会には環境を心配し、リサイクルを一所懸命にやっている人たちがいます。その人たちは本当に社会において大切な人たちです。一方、「環境」や「リサイクル」を別の目的に使っている人たちもいるということは実に残念なことです。
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より