人間はこれまで汗を流して苦労してきたことが何の役にも立たないとわかったときほどがっかりすることはありません。まして「良かれ」と思って進めてきたことがかえって悪かったとわかったときなど本当に情けない気持ちになります。
容器包装リサイクル法が予備的に施行されてから四年、二年の四月には「完全施行」の段階になりました。それなのに、すでに処理ができないペットボトルが自治体に溢(あふ)れ、家庭では疲れ切った体にむち打って使い終わったマヨネーズの容器を洗剤できれいに洗っています。
続いて二〇〇一年の四月からは家電製品のリサイクル法が施行される予定で、さらに国会には次々とリサイクル関連法案が提出されています。これから私たちは容器や包装だけに気を配るのでは済まなくなります。家庭電化製品、自動車、果ては生ゴミまでもリサイクルを考え、苦労することになるのです。これほどまでに個人の生活を制限する法律も希(まれ)です。本当にそれだけの価値のあるものなのでしょうか。
著者は先に『「リサイクル」してはいけない』(青春出版社刊)を出して世にリサイクルの問題点を問い、リサイクルが環境を汚し、資源の枯渇を早め、さらに廃棄物を増やすことを指摘しました。
それとともに本当の意味で、環境を大切にする生活とは何なのか、私たちは一体どのような生活を送らなければならないか、について考えてみました。
前著の執筆のきっかけはこれほど日本全体でリサイクルに取り組んでいるのに、「リサイクルは環境に良い」という専門家もいませんし、まして「リサイクルが環境に良い理由は」と説明する人もいないからでした。信じられない社会の状態なのです。
そして、本が出版され、テレビ、ラジオ、週刊誌などで報道され、ときには「リサイクル賛成派との対決番組」が組まれても、「リサイクルは環境に良い。その理由は……」と発言する人はついに登場しませんでした。それでもまだ私たちはリサイクルを継続するべきなのでしょうか?
二〇世紀――――。物質生産量の増加は工場労働者の疎外などを生みましたが、同時に生活水準の向上をもたらし、結果として文化的生活と長寿を前提とした人生設計へとつながったのです。
現在の日本に住む私たちはまさに大量生産、大量消費の恩恵をたっぷりと受け、世界一の長寿を享受しています。
しかしインド独立の功労者、マハトマ・ガンジーが警告していたように、現在の文明は論理的にいって「終わりのある文明」だったのです。それを私たちも反省しました。バブル経済で浮かれた後、もっと地球環境や資源の枯渇に関心を持たなければならない、それに無関心であることは悪いことだ、と一気に反対側へといきました。数年前は「リサイクルに反対するなど非国民だ!」といわれんばかりの勢いだったのです。
しかし冷静に考えると私たちの希望は「リサイクルをすること」ではなく、「これまでの大量生産、大量消費を反省して地球環境を考えて生活しよう。できればあまり生活程度を落とさずに長く続く文明生活を築きたい」ということだったのです。
それがいつの間にか「リサイクル」だけが一人歩きし、日本はあらぬ方向に行きつつあります。
「リサイクル」が環境にいいというのは幻想です。
本著ではむしろリサイクルによってこの美しい日本が汚染される可能性があること、リサイクルによってゴミが増えること、そしてそれは現代の日本全体がさまざまな形で汚染されている結果であることを描きました。そして私たちの願いと違って、なぜ、このような予想もしない方向へと日本が突進しているのか、ということをじっくりと考えてみました。
温暖で美しい日本、私たちの祖先がくれた豊かな生活、そして、これからの明るい私たちの未来を真剣に、私たち自身で守りたいものです。知識は私たちを守り、私たちの夢を実現するために手助けをしてくれるでしょう。

二〇〇〇年五月五日
芝浦にて
武田邦彦

『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より