日露戦争が日本勝利の形で終わりました。一九〇五(明治三十八)年九月五日、ポーツマス講和条約が調印されました。勝利とはいうものの、惨憔たる「勝利」でした。日本の継戦能力は尽き果てていました。 戦費は、当時の日本の国力を遥かに凌駕していました。直接の戦費、十八億円余は、開戦の年の国家予算、二億三千万円の七・八倍を超えていたのです。 戦費の調達は、どのようにして可能だったのでしょうか。 日本がロシアと戦うことができたのは、ジェイコブ・シフというアメリカの銀行家の日本贔屓」に支えられてのことでした(もちろん、シフ一人の贔贋ではなく、彼の名は「彼ら」の象徴です)。 当初、日本は八億円(四億ドル)を戦費として見込みました。国家予算の三・七倍ですが、これとても朝鮮からロシアを駆逐するだけの戦費と見られていました。そして、さらに四値五千万円が不足すると積算されていました。 一九〇四(明治三十六)年、二月四日の御前会議で日露戦争開戦が決定されると、大蔵大臣・曽根荒助は辞表を提出しました。必死の説得で辞表は撤回されましたが、開戦前の日本の置かれた立場は哀しいものでした。 ロシア皇帝ニコライニ世は「日露戦争はあり得ない。なぜなら、余がその気になっていないからだ。日本人が攻撃してきても、ロシアにとっては反撃というよりは、それは軍事的な散歩にすぎない」と豪語していました。 しかし、日本はロシアの南下政策の主方向が極東であり、攻勢終末点が日本にあることを正確に理解していました。これは橋本左内や松平定信以来の「赤蝦夷」認識の伝統もありましたが、国際的な忠告にも支えられていました。 例えばドイツは、ともすればロシア側に立っていたかと多くの史書は書きますが、それは単純に過ぎます。ドイツの三B政策(ベルリン・ビザンチューム・バグダードを結ぶ進出政策)の推進のためにも、ロシアの南下が極東を志向することは好ましいことでした。 ただし、現にドイツは駐英公使林董に接触し、密かに日英独三国同盟を提案しています。 露清密約を探知していたドイツは、日露の衝突を予測していたのです。 この三国同盟は実現しませんでしたが、これがひとつの契機となり日英同盟を産みます。日露開戦の二年前です一九〇二・明治三十五年)。 イギリスはボーア戦争の処理に追われていました。アジアに広がった大英帝国の権益確保のために、アジアでの同盟国を切実に必要としていたのです。イギリスが中国(清)に展開していた兵力は二万余でしかなく、海事力でもロシア太平洋艦隊よりも総トン数で二万トン、主力艦においても十一隻対六隻と劣勢でした。 大英帝国は日本との同盟が必要だったのです。 一方、敗戦したロシアが一時的に無力になったことにより、ドイツは後顧の憂いが減じたのに乗じ、勢力を拡張し始めたのでした。そのためイギリスは極東海域から主力艦をヨーロッパに回航し、またインド防衛にも日本との同盟強化(拡大)を必要としたので第二次日英同盟を締結しました一九〇五・明治三十八年)。 『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)
