〇一八九五年:ステパーノフによる私家版『議定書』が印刷される
ステパーノフは友人のスコーチンから入手した『議定書』原稿を私家版に印刷した。マリンズはアシェル・ギンズバーグがパリに姿を現わした直後から、つまり『議定書』ギンズバーグ版なるものが出回って、それがロシアに持ちこまれ、ステパーノフの私家版印刷となったかのように読める書き方をしているが、ステパーノフ版はあくまでもグリンカ嬢経由のものだったようである。
その間の経緯について、一九二七年四月一七日付でステパーノフ自身が署名した宣誓供述書がある。おそらく、ニルスの一件で取調べを受けた際の宣誓供述書であろう。
* * *
一八九五年、トウラ地区での私の隣人アレクセイ・スコーチン退役大尉から『シオン賢者の議定書』の草稿を一部入手した。彼の説明では、パリに住む知り合いの女性(彼はその名前を言わなかった)がユダヤ人の友人の家で見つけたものだという。パリを離れる前に密かに翻訳して一部をロシアに持ち帰り、それをスコーチンにくれたとのこと。この翻訳原稿を初め私は謄写版印刷にしてみたものの、とても読めた代物ではなかったので、印刷してもらうことにした。日付も出版地も印刷者の名前もいっさい伏せて、である。印刷に際しては、当時セルゲイ大公家の執事長だったアルカジー・イポリトヴィッチ・ケレポフスキーの世話になった。彼が『議定書』を地区印刷所に持ちこんで印刷してくれたのである。
セルゲイ・ニルスが彼の著作の中に挿入したのは、この時に印刷してもらった『議定書』で、それに彼自身の注釈を付け加えたのである。
一九二七年四月一七日
前モスクワ教区行政長官、前皇帝陛下侍従、前枢密顧問官、モスクワ・クルスク鉄道オリヨール区一八九七年度管理官
(署名)フィリップ・ペトローヴィッチ・ステパーノフ
(立会人)スタリ・フォンターク露人移民区総督ディミトリー・ガリーチン大公
* * *

〇一九〇一年:セルゲイ・ニルス著『卑小なるもののうちの偉大』出版される
一方、セルゲイ・ニルス(一八六二~一九二九)は一九〇一年にツァールスコエ・セロー(現サンクトペテルプルク市プーシキン区)で『卑小なるもののうちの偉大』と題する本を出版し、その中にロシアにおける初めての試みとして『議定書』を収録した。ステパーノフが前掲の宣誓供述書で述べているように、『議定書』そのものはグリンカ嬢がロシアに持ちこんでステパーノフが印刷したものを利用して、それに注釈を加えたのである。セルゲイ・ニルスの出版とほぼ同時に、その一部をニルスの友人のG.V.プトミが持ち出した。プトミもまた独自に『議定書』を出版した形跡がある。
〇一九〇五年:セルゲイ・ニルス著『卑小なるもののうちの偉大』の第二版出版される
ロシア革命後に成立したケレンスキー政権はニルス版の『議定書』すべてを禁書にして破壊するように命じた。ごく少部数だけが生き残って国外に持ち出され、
これが底本となって各国語に翻訳されて現在に伝わっているのである。
[定本]『シオンの議定書』四王天延孝原訳 天童竺丸補訳・解説 成甲書房
昭和十六年(一九四一年)刊「猶太思想及運動」附録第三「シオンの議定書」を底本とした。
http://michi01.com/index.html