〇一八八四年:ユリアナ・グリンカ嬢がカトヴィッツ会議議事録をシャピロより入手
レスリー・フライ(本名パキータ・ド・シシュマレフ)の名著『川は東に流れる』だけがグリン力嬢とショルストの間の詳しい事情を伝えている。同書第二部「議定書」第二章「議定書はいかにしてロシアにもたらされたか 」によれば、ロシアの将軍の娘ジュスティーヌ・グリンカ嬢がパリで祖国のために情報収集活動を行なっていた。
彼女は集めた情報をサンクトペテルブルクの内務省の次官オルゲフスキー将軍に届けた。この目的のためにグリンカ嬢はパリのミスライム・ロッジに所属するフリーメーソン員であるジョ セフ・ショルストというユダヤ人を一人雇っていた。ショルストは本名をシャピロといい、父親はロンドンで贋作の罪で懲役一〇年の刑に服していたが、以前にも懲役二年に処せられたことがある常習犯だった。
一八八四年のある日のこと、ショルストはロシアにとって非常に価値のある文書があるのだが、もし二五〇〇フラン払ってくれたら手に入れてやってもよいのだが、と言ってきた。
グリンカ嬢が内務省に掛け合うと、その二五〇〇フランは出ることになり、支払いと引きかえに文書が手に入った。フランス警察の公文書によれば、その後ショルストはエジプトに逃げたが、そこで殺された。彼女はフランス語で書かれた文書にロシア語の翻訳を付して祖国のオルゲフスキー将軍に送付した。
将軍はそれを上司であるチェレーヴィン内務大臣に手渡した。皇帝の御覧に供するためである。
ところが、内務大臣チェレーヴィンはユダヤ人の大富豪に弱みを握られていたために、ユダヤ人の意に反することは避けたいので、その文書を皇帝に見せることなく保管庫に入れて、しまっておいただけだった。
まもなく、ワシリーイ伯爵の著書と称してロシアの宮廷生活を書いた本が何冊かパリで出回った。ワシリーイ伯爵というのは偽名で、実際には材料をデミドフ・サン・ドナーテ王女やラージヴィル王女などから得て、ジュリエット・アダム夫人が書いたものだった。
そうした本のことが皇帝の耳に入ると、皇帝は痛く不快を催され、作者は誰なのか突き止めるよう秘密警察に命令が下った。こんな些事をわざわざ皇帝の耳に入れたことからして、恐らくはこの出版騒動自体がグリンカ嬢を陥れるためのデッチ上げであって、犯人は当然グリンカ嬢ということに落ち着く段取りができていたのだ。当時、パリに駐在していたロシア秘密警察の諜報員の中にユダヤ人が何人もいたが、その中でもマリューロフあたりがグリンカ嬢の動きが邪魔になり、その追い落としを図って計画したものであろう。
果たせるかな、帰国命令が下って祖国に帰ってみると、オリョール(モスクワ南方の町)にあった彼女の地所は没収処分にされていたのだ。
グリンカ嬢はオリヨール地区の貴族団長を務めていたアレクセイ・スコーチンに『議定書』(ここで初めてシャピロから得た文書が『議定書』だと明かされる)を一部提供した。スコーチンはそれを二人の友人、フィリップ・ペトローヴィッチ・ステハーノフとセルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・ニルスに見せる。
[定本]『シオンの議定書』四王天延孝原訳 天童竺丸補訳・解説 成甲書房
昭和十六年(一九四一年)刊「猶太思想及運動」附録第三「シオンの議定書」を底本とした。
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