吉田松陰は長門の人であります。十一歳の時、始めて藩主に召出されて兵書の講釋をいひつけられました。家の人たらはいろ/\と氣づかったが、松陰は藩主の前に進み出て大ぜいの家来の列んでゐる中で、少しも臆せず、自分の知ってゐる通りはつきりと講釋したので、藩主をはじめ皆大そう感心しました。松陰は外國の事情がわかるにつれて、我が國を外國に劣らないやうにするには、全國の人に尊王愛國の精神を強く吹込まなければならないとかたく信じて、一身をささげて此の事に盡さうと決心しました。
二十七歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、弟子たちに内外の事俯を説き、一生けんめいに尊王愛國の精神を養ふことにつとめました。松陰は至誠を以て人を教ヘれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、「松本村は片田舎ではあるが、此の塾からきっと御國の柱となるやうな人が出る」と言って、弟子たらを勵ましました。
松陰が松下村塾を開いてゐたのは僅かに二年半であったが、はたして其の弟子の中 からりつばな人物が出て、御國の為に大功をたてました。
身はたとひ武蔵の野邊に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂
『国民の修身』監修 渡辺昇一