宮崎縣茶臼原の廣い高原に、有名な岡山孤兒院を移した茶臼原孤兒院がありました。十戸程あるその家族舎には、どれにも子供が十二三人づつ居って保姆の世話を受けて普通の家庭に居ると同じ様に幸幅にくらしてゐました。この子供たらは院の小學校に通ひ、課業が終ると家族舎に歸つて、一しよに樂しく家事や耕作の手傳をしました。小學校を卒業した後は、専ら農事や裁縫を習ひ、一人前になった上で、世に出ることになつてゐました。この孤兒院を開いた人は石井十次です。
十次は情深い人でありました。小さい時、氏神のお祭に、近所の或子供が縄の帶をしめてゐるとて、仲間の者にいぢめられてゐるのを見て、かはいさうに思ひ、自分の博多帶ととりかへてやったことがありました。十次は大きくなって岡山の醤學校にはいりましたが、在學中に賓地研究のため、しばらく片田舎のある診察所に行ってゐたことがありました。此の診察所の隣には大師堂があって、毎夜巡禮が來て寝て行きます。十次は毎朝、大師堂に飯を持つて行って巡禮にめぐみました。或朝、いつもの様に大師堂に行って見るとあはれな子供の巡禮が二人、ぼんやり立ってゐたので、十次は飯を與へて歸りました。しばらくすると、子供等の母だといつて一人の女巡禮がたづねて來て、ていねいにお禮を述べ、不幸な身の上について、いろいろと話しました。十次はそれを聞いて氣の毒でたまらず、年上の子を預つて泄話をすることにしました。この時十次は、世間にたくさん居る伺じ様な不幸な子供をどうしても助ければならぬと堅く決心しました。それから間もなく岡山孤兒院をたてて、だん/\多くの孤兒を収容しました。
十次は孤兒院の事業のために、いろ/\の困難を忍んで一生力を盡しました。十次の世話になつて泄に出て、りつばに獨立の生活を營んでゐる者がたくさんあります。
『国民の修身』監修 渡辺昇一