ところで、ここで一言申しておきたいことは、最初に私は般若の智慧こそ、彼岸へ渡る唯一の道だといっておきましたが、ここではまた、布施が六度の母胎である、布施こそ六波羅蜜の根本であると申しました。では、いったいどちらが真実なのかと疑いをもたれる方があるかも知れません。まことにごもっともなことです。しかしそれはどちらもほんとうです。というのは、前からしばしば申しましたごとく、仏教における智慧と慈悲とは、―つのもののうらおもてで、二にして一です。一つのものに対する二つの見方です。ところで、この布施というのはつまり慈悲のことです。ほんとうの慈悲、すなわち布施は、智慧の眼が開いていないものにはできません。大悲は、盲目的な愛でないかぎり、必ず、正しい批判と、厳(おごそ)かな判断と、誤りなき認識、すなわち智慧によらねばなりません。六度の根本、すなわち彼岸へ渡る根本の方法が、布施であり、般若であるといったのは、まさにそれです。柔和なあの観音さまのお姿、忍辱(にんにく)の衣を身にまとえるあの地蔵さまのお姿を拝むにつけても、それがほんとうの自分の相(すがた)であるこに気づかねばなりません。私たちのほんとうの心の姿こそ、あの絵像や、木像に象徴されている菩薩の尊容(おすがた)なのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)