すなわち苦の原因は欲です。欲こそ苦の本です。しかし欲は苦の根源だといっても、私どもは無条件にそれを認めることはできません。なんとなれば、欲はまた歓楽の根源でもあるからです。で、問題は欲そのもの、欲望自体ではなくて、「愛着のこころ」、「執着のこころ」、「囚われのこころ」が、つまり苦の原因なのです。すなわち人間のもつ普遍的欲望、すなわち五欲そのものが、苦悩の原因ではなくて、ただ、食欲とか、色欲(性欲)とか、睡眠欲とか、財産欲とか、名誉欲のみが、歓楽の根本であると妄信して、これに愛着し、これに執着するこころが、苦の原因だと釈尊はいわれているのです。しかもその五欲に愛着し、執着することは、結局、「因縁」の道理を知らないがためです。すなわち、一切は空であり、無我であることを知らない、無知の無明から起こるわけです。ですから所詮、一切の苦の根源は欲であり、欲望に対する執着ではありますが、そのまた根本はつまり無明にあるわけです。無明とは、「十二因縁」の根本となっている、あの無明です。
さて五欲について思い起こすことは、「譬喩経(ひゆぎょう)」のなかにある「黒白二鼠」の譬喩(たとえ)です。それは非常に面白い、いや深刻な誓喩で、ロシャの文豪トルスイも、スッカリ感激したきわめて意味ふかい話です。それはこうです。
むかしあるところに一人の旅人がありました。広い野原を歩いていた時、突然、狂象に出逢いました。おどろいて逃げ去ろうとしましたが、広い広い野原のこと、逃げ隠れる場所とてはありません。しかし幸 いにも野原の中に、一つの古い井戸がありました。そしてその井戸には、一筋の藤蔓(ふじづる)が下の方へ垂れ下がっていました。天の与えと喜んで、旅人は急ぎそれを伝って、井戸の中へ入ってゆきました。狂象はおそろしい牙をむいて覗きこんでいます。ャレまあよかったと、旅人がホット一呼吸していると、井戸の底には怖ろしい大蛇が口を開いて、旅人の落ちてくるのを待っているではありませんか。驚いて周囲を見まわすと、どうでしょうか、四方にはまだ四疋(ひき)の毒蛇がいて、今にも旅人をぎもうとしています。命とたのむものは、たった一本の藤蔓です。しかしその藤蔓もです、よく見れば、黒と白の二疋の鼠がこもごもその根を齧(かじ)っているではありませんか。もはや万事休すです。全く生きた心地はありません。ところがです。たまたま藤蔓の根に作っていた蜜蜂の巣から、甘い蜜がボタリボタリと、一滴、二滴、三滴、「五滴」ばかり彼の口へ滴(したた)りおちてきたのです。全くこれは甘露のような味わいでした。そこで旅人は、もはや目前の怖しい危険をも、うち忘れて、ただもうその一滴の蜜を貪り求めるようになったというのです。
申すまでもなく、曠野(こうや)にさ迷うその旅人こそは、私どもお互いのことです。一疋の狂象は、「無常の風」です。流れる時間です。井戸とは生死の深淵です。生死の岸頭(がんとう)です。井戸の底の大蛇は、死の影です。四疋の毒蛇は私どもの肉体を構成する四つの元素(地、水、火、風の四大)です。藤蔓とは、私どもの生命です。生命の綱です。黒白二疋の鼠とは、夜昼です。 五滴の蜂蜜とは、五欲の事です。官能的欲望です。まことにひとたぴ、この巧妙な人生の臀喩を聞いたならば、波斯匿(はしくのた)王ならずとも、トルストイならずとも、まざまざ「人生の無常」を感ぜずにはおれないのです。無常の恐怖に戦慄せずにはおれないのです。
そして、「求道の旅人」とならざるを得ないのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)