だから釈尊は、人間の苦悩はどうして生ずるか、どうすればその苦悩を解脱することができるか、という、この人生の重大な問題をば、この「十二因縁」という形式によって、諦観(たいかん)せられたのです。そして無明を根本として、老死の道を辿(たど)り、同時にまた、老死を基礎として、無明への道を辿り、ここに「十二因縁」の順と逆との二つの見方によって、ついに「十二因縁皆心に依る」という、さとりの境地にまで到達されたのです。十二因緑皆心に依るとは、まことに意味ふかい言葉ではありませんか。こんな唄(うた)があります。
「鏡にうつるわが姿、つんとすませば、向こうもすます。にらみ返せば、にらんでかえす。ほんにうき世は鏡の影よ。泣くも笑うもわれ次第」
まったくそのとおりです。所詮、一心に迷うものは衆生です。一心を覚るものが仏です。小さい「自我」に囚われるかぎり、人生は苦です。たしかに人生は苦です。しかし、一たび小さい自我の「繋縛(けいばく)」を離れて、如実に一心を悟るならば、一切の苦悩は、たちまちにしておのずから解消するのです。要は、一心の迷いと悟りにあります。まことに、「眼裏(がんり)塵(ちり)あれば三界は窄(せま)く、心頭(しんとう)無事なれば一床寛(しょうかん)なり」
です。
一心に迷うて。あくまで小さい自我に固執するならば、現実の世界は、畢竟苦の牢獄です。しかし、一たび、心眼を開いて、因縁の真理に徹し、無我の天地に参ずるならば、厭(いと)うべき煩悩もなければ、 捨てるべき無明(まよい)もありませぬ。「渋柿の渋がそのまま甘味かな」です。渋柿の渋こそ、そのまま甘味のもとです。渋柿を離れて、どこに甘柿がありましょうか。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)