易の言葉は暗示に満ちています。たとえば、易では方角ということをかなり重視します。「南西が良くて、東北が悪い」というとき、すこしでも科学的な思考をする人間なら「その根拠は何なのか」と疑うことでしょう。
しかし、こういった疑いは科学的思考や推論で解決できることではないのです。納得もできません。しかし何千年も前からそういわれているという事実を無視することはまちがいです。
それは、人間存在や宇宙の成立を科学的に完璧に証明できる人がいないのと同様、理の領域だけで解釈しようとする人にいくら説明しても納得させることはできないのです。たとえば、こういう言葉があります。
「人間を理解するということで、いちばん見事な理解の仕方とはどういうものか。それはこの人間はこういう人間である、と丸ごと思うことだ。思ったらいかなることがあっても疑わないことだ。これほど見事な理解はない。 そして、こういう理解の仕方は決して誤またないのである」
易の理解もこれと同じです。科学的に、あるいは理性で納得できたら信じよう――そういう人は、 信じる必要はないのです。易は現代科学を上回る科学的側面があります。しかし、そこには証明の体系がない。元来、科学的思考は西洋文明の子で、証明することも西洋的な思考習慣から出たものです。
この東洋と西洋のちがいは、 医療技術についてみるとよくわかります。 西洋医学は人間を分解し、メカニズムを知り、外科手術をほどこし、対症療法をほどこす。悪い部分があれば摘出し、頭が痛ければ痛み止めを飲ませる。
これに対し、東洋医学は人間の全体から考えていく。この病気になった原因は何かの元をさぐって断とうとする。 薬も頭が痛いから痛み止めではなく、痛くなった原因視する。それが便秘から来ていれば、便通のよくなる薬を飲ませる―――こういう方法論は、そのプロセスを説明してくれないかぎり、症状と治療の因果関係が理解できないそして、 現代人はこのプロセスのわかりにくさを非科学的といってしまうのです。 医学が西洋医学に比べ、 神秘的に見え、 非科学的に見えるのはそのためです。 易も同じことがいえる。
『易経』に書かれていることは、きわめて象徴的、暗示的である。これはいわば結論だけを抽象的な言葉(それは普遍性をもたせるためには不可欠なことである)で表現してあるため「この病気ならこの薬を煎(せん)じてのみなさい」というだけで「なぜ」「どうして」という問いには親切に答えてくれていない。
しかし、だからこそ、易はこの宇宙のあらゆる現象、人間のあらゆる思考と営為をし、そこから行動の指針を与えてくれるのです。あなたは易をあなたの未来を暗示すシンボルとしてとらえるべきです。
こうしたとらえ方をすることによって、はじめて易の回答はあなたの潜在意識にインプットされ、あなたの人生にとって最良の選択のヒントを与えてくれるのです。

「マーフィの易占い」J.マーフィ(昭和61年、産能大学出版部)