最後に恋愛・結婚運とか職業・社会連とかをはなれて、この星生まれの英雄の歴史上有名な例をあげておきましょう。日本海海戦は世界海戦史に類のない完勝の記録ですが、当時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎元帥は九紫の生まれでした。明治三十八年(五黄)の五月(八白)元帥は朝鮮鎮海湾に全艦隊を集め、ロシア本国からウラジオストクをめざして航行して来たバルチック艦隊を待ちうけていました。

ところが敵は、ヴェトナム沖からぷっつりと消息をたってしまいました。そこからウラジオストックヘ向かうには、対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の三つのコースがあり、そのうち宗谷コースはまず可能性はあるまいと推定されたのですが、あとの二つは公算五分五分、完全にあなたまかせだったのです。

もちろん、東郷元帥は、敵が対馬へ向かうと信じていたればこそ、ここで待機をつづけていたのですが、敵が津軽コースをたどったら、敵発見の報告で、全速力で進撃してもまにあいません。完全に敵をのがしてしまいます。

五月も下旬にはいってから、司令部の参謀たちのあいだには、焦慮の念が高まりました。どんな計算をしてみても、対馬に向かったとすれば、敵はもうあらわれるはずだというのです。ここまで待って、来ないようでは、敵は津軽海峡に向かっているのは確実だ。連合艦隊は陸奥湾か、せめて能登半島まで進出し、そこで敵を待つべきだという意見が強まったのです。

しかし、この作戦にしたがって、そのあとで敵が対馬にあらわれたら、おそらくウラジオストク入港を食いとめることはできません。

東郷元帥は、日露戦争、ひいては日本の運命を左右する決断をせまられました。

それでは、この月の九星盤を調べてみましょう。鎮海湾から見て津軽海峡は北東の暗剣殺に当たりますが、後述するミッドウェー海戦の場合とちがって、敵がこちらの方向から直接自分に攻めかかってくる危険は絶無です。

敵はまずウラジオストクヘ逃げこんで、それからつぎの作戦にかかりたいはずなのです。

したがって、この凶方へ向かって動くことは、自分に不利となるわけです。むしろ反対の南西、五黄殺の凶方が直接の脅威となるはずです。

結局、元帥は微動もしませんでしたが、方位学の法則から見ても、それは最善の策でした。たしかに敵はその月の凶方をおかし、南西から北東に向かって対馬海峡を横断しようとしまし た。五黄殺から暗剣殺へ向かっての進行です。

五月二十七日、敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、会戦予定地、沖ノ島悔域に向かって進撃を郎始しました。南、二黒の吉方です。

このとき、日露両艦隊の兵力はほぼ五分五分というところでした。しかし、二日にわたる海戦で、敵は三十八隻のうち三十五隻を失い、日本の損害は水雷艇三隻だけでした。

もし元帥が早まって、数日まえに東北へ進撃していたら、この大勝の記録ものこらず、日露戦争も長期戦となり、その後の日本の運命はまったく変わっていたでしょう。

 

◎出典 「改定方位学入門」高木彬光著 カッパブックス及びブログ作者の収集データーによる◎