◎ 二 お布施主義、日々主義 ◎
私の目標は、普通の人とは少し違っている。たとえば会社員の時であれば、私の目標は出世して「社長になる」ことではなく、「この研究を成功させたい」ということだった。研究が成功したらどうなるか、などとは考えなかった。
大学の管理をしている時も、「学長になる」という目標を立てても、私はファイトが湧かなかった。学長の仕事は意外に単調なものである。「工学教育をよくしたい」とか「この大学をよい大学にしたい」というのが、私の目標だった。
学長補佐をしていた頃、毎日、夜遅くまで学長室で仕事をしていた。ある時、私と親しい事務の人が「先生、学長を目指して頑張ってください」と励ましてくれた。私は「ありがとう」と応えたものの、自分が夜遅くまで働いているのは「この大学をよくするため」だとは言えなかった。他人からすれば歯の浮くようなせりふであり、そういうことは胸の内にしまっておくものだと思っているからである。
それでも私の人生が順調だったのは、目標が普通とは違っていたからではないかと思う。
学生時代の目標は「一番になりたい」ではなく、「勉強ができるようになりたい」であった。会社時代は「社長になりたい」ではなく、「仕事を成功させたい」が目標だった。大学時代は「学長になりたい」ではなく、「大学教育を改善したい」が目標だった。
中学や高校では、しばしば先生が生徒に夢や目標を書かせることがある。「東大に行く」「社長になる」「お金持ちになる」……。それはみな、「他人との関係」において「勝つ」ことを求める。自分の目標に他人との競争が関わってくると、それはしばしば挫折に結びつき、暗く苦しいものになってゆく。
勉強ができるようになりたい、仕事を成功させたい、お金を節約して家族に安心を与えたい……。そういった目標は自分自身で完結し、自分だけでできる。だからストレスはないし、一度や二度失敗しても気にする必要もない。
勉強をすれば、必ず少しはできるようになる。仕事は時に失敗することもあるが、何度か挑戦しているうちに、やがて成功する。「稼ぐに追いつく貧乏なし」というように、一気に金儲けはできなくても、精一杯働き、節約することはできる。どれも、自分ひとりで達成できる目標である。
そういった目標は、一緒に暮らす世の中の人を押しのける必要がないから、それほど恨まれない。勉強ができるようになり、仕事がうまくいけば、地位が上がり、人の上に立つかもしれない。でもそれは、あくまでも「結果的にそうなった」ということであり、「人の上に立つこと」自体を目的にしていない。ここが非常に大切だ。
私はこれを「お布施主義」と言うこともあるし、「日々主義」と呼ぶこともある。
お坊さんは檀家に呼ばれると、出向いて一所懸命にお経を読む。読み終わるとお茶が入り、檀家の人としばらく話をする。そして帰る段になると、お布施が包まれる。少ない時もあれば多い時もあるけれど、それはお経を読む時にはわからない。いつも一所懸命にお経を読み、結果としていただくものである。
人間は、目標がなければ生きていけない。でも、目標を達成することに意味があるのではなく、目標を置くことによって日々を充実して生きられることに意味があるのである。だから、「目標のために日々が苦しくなる」というのでは意味がない。
人間はやがて死ぬ。だから、最終目標は死ぬことと言っても過言ではない。でも同時に、自分の人生はかけがえのないものである。その人生を充実して送るためには、次の二つを決めることだ。
(1)他人と関係のない目標を立てる。できれば、他人を助ける目標がよい。
(2)目標は毎日のためにある。目標のために毎日を過ごさない。
これを決めれば、人生はずっと楽しく、ラクなものになるだろう。
自分で決めることができない、「向こうから来るもの」を目標にしてはいけない。自分ができることに力を注ぎ、向こうから来るものは気にしない。試験を受ける時、勉強は一所懸命やるけれど点数は気にしない。お店を大きくしようとするのではなく、毎日お客さんに喜んでもらえるよう心がける。それが、よい目標の立て方だと思う。
『武田邦彦の科学的人生論』飯塚書店刊より R081107

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