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昭和十二年(一九三七年)七月二十九日早暁、北支通州城内にて、通州事件が起こった日です 

昭和十二年(一九三七年)七月二十九日早暁、北支通州城内にて、通州事件が起こった日です 



通 州 事 件 慰 霊 祭
祭  文
昭和十二年七月二十九日 北支通州城内

昭和十二年(一九三七年)七月二十九日早暁、北支通州城内にて、通州事件が起こった日です。中共に忖度する人たちは、この事件があたかも何もなかったかのように、何も報じません。彼の国が捏造する史実の中には、自らの歴史に刻まれたおぞましい事実を、他の国が興した事件として捏造する傾向があるようです。私たちは、史実に基づいて、彼らの言動に騙されることなく、しっかりと事実を伝承する義務があります。

祭  文
靖国神社に祀られし英霊の御前にて、参拝者代表、三浦小太郎、謹んで祭文を奉る。
昭和十二年七月二十九日早暁、北支通州城内にて、治安を担ふはずの冀東防共自治政府保安隊の約三千名の支那兵が叛乱を起こし、日本陸軍支那駐屯軍守備隊を襲ふ。守備隊員百二十人、一歩も退かず勇戦奮闘するも、衆寡敵せず討ち死にしたり。
叛乱軍は支那人学生も加はり暴徒と化し、城内に居住せる約四百人の日本国民の住居、商店、旅館などを襲撃、日本人とあらば、無辜の民間人、老若男女を問はず、殺戮、暴行、略奪の限りを尽くせり。日本人の多くが宿泊せる旅館、近水楼にて、宿泊客十五人中十四人、旅館関係者十人が殺害されたり。冀東政府実業庁植綿指導所の所員家族十人が、難を避くるため集結しをりしが、暴徒に襲はれ、無防備のまま、身重の女性二人を除き凶弾に斃れたり。
天津の日本陸軍支那駐屯軍は、急を聞き通州に向かひ叛乱軍鎮圧にあたり、これを一掃し、叛乱は二日にて収束せしも、実に二百二十余名に及ぶ邦人が無念の死を遂げたり。犠牲者の中には当時日本国民たる朝鮮人約百名を含む。彼等もまた同胞として弔はれたり。
当時通州に住む邦人たちは、支那人たちと友好的かつ平和裏に共存し、彼らの生業を助け同地の発展に寄与せるものがほとんどなり。その邦人たちの善意を裏切り、計画的に虐殺したる保安隊の蛮行は、人道にもとり神もこれを許さざるものとして、当時の全日本国民を憤怒の情に陥れぬ。また、当時の米国人報道記者もまた、これを古今を通じて最悪の集団殺害として歴史に記さるべきものと評したり。
されど大東亜戦争後、事件は隠蔽され、歴史書からも姿を消し、国民の記憶より消し去られたり。この悲劇的事件を再認識し、失はれたる歴史の記憶を再建すべく、事件より八十年を経たる平成三十年、靖国神社にて慰霊祭が催され、また有識者や事件体験者ご遺族の証言を含む大集会が開かれ、それ以後、通州事件は再び日本、そして世界の悲劇的事件として認識さるることとなる。
令和四年、通州事件勃発八十五周年の年に、事件当時の新聞記事を網羅したる資料集が、志ある出版社、集広舎より出版せらるる運びとなれり。同書に収められたる、当時の日本国民にこの惨劇を伝へたる報道人たちの怒りと悲しみに満ちた文章は、現在、そして未来の日本国が、常に危機意識をもつて国家主権と国民の生命を守ることの重要さを伝へんとす。日本国政府が国家主権並びに国民の生命財産を守ることは、国家の最低限の義務と心得るべし。
本日、ここに集ひし我々は、非業の死を遂げたる同胞たちの霊を慰むるとともに、二度とこの通州事件とその犠牲者を歴史の闇に葬らせず、わが国の近現代史の真実を追求し続けることを心より誓ふ。
令和八年七月二十九日
通州事件アーカイブス設立基金
並びに、慰霊祭参加者一同

[出典・注記]

通週事件アーカイブス設立基金

本祭文は、通州事件アーカイブス設立基金による慰霊祭にて奉読されたものである。

犠牲者数については諸説あり、陸軍大学「支那事変初期ニ於ケル北支作戦史要」(昭和十四年)は在留邦人三百八十五名のうち二百二十三名、在天津日本総領事館北平警察署通州分署の発表は二百二十五名(内地人百十四名・朝鮮人百十一名)とする。

米国人報道記者の評は、事件当時通州に滞在していたフレデリック・V・ヰリアムズの著書『Behind the News in China』(一九三八年)に関連する記述がある。


知識は解放され、創造者は報われる。


#牧正人史 #マシレ予測 #通州事件

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