第五章・いのちの時代 連載第百三十八話 見る目
物事を見るとき、どれほど理性的であろうとしても、そこにはどうしても恣意が入る。自分の見方が正しいとは限らない。それを承知のうえで、それでも書いておきたいことがある。
特別養護老人ホームで働いた年月があり、その後、訪問介護の現場に身を置いた。そうして幾つもの現場を見てきたせいだろうか、彼はいつのまにか、施設に足を踏み入れた瞬間に、その場の良し悪しの見当がつくようになっていた。誰に教わったわけでもない。ただ、身体に染みついた何かが、そう告げるのである。
その目が何を見ているのかと問われれば、うまく説明できない。設備の新しさでもなければ、掲げられた理念の立派さでもない。職員が利用者に向ける眼差し。声のかけ方。呼ばれたときに身体が動くまでの、わずかな間。廊下や居室に漂う匂い。家族が訪ねてきたときに、職員の表情がどう動くか。そういう、言葉にならないものの集積である。
大切な人をどこかへ預けるという決断は、本人にとっても家族にとっても重大である。パンフレットや説明会で分かることには限りがある。結局のところ、多くの人は、そこで働く人たちのしぐさや所作の中に何かを見て、感じ取っているのではないだろうか。専門の知識がなくとも、人には人を見る目がある。その直感を軽んじれば、判断を誤る。
――このことについて、後になって、彼はある話を聞いた。
先生のご身内の一人が、たまたま施設の玄関先で、ひとつの光景を目にしたのだという。認知症のご利用者が、外へ出ようとしていた。その場には介護者が何人もいて、そのことに気づいていた。ところが、誰も動かなかった。ただ見ているだけだった、と。
介護の心得のない人が、たまたま通りかかっただけである。それでも、その一瞬で、そのご身内はその施設への信頼を失った。
なぜ誰も動かなかったのか、本当のところは分からない。手が離せなかったのかもしれない。何か事情があったのかもしれない。その場に居合わせなかった彼に、それを確かめるすべはない。だが、確かめるすべがないということと、信頼が壊れたということは、まったく別のことである。信頼というものは、長い説明によってではなく、たった一瞬の光景によって決まってしまう。それは、預ける側にとっても、預かる側にとっても、動かしがたい事実なのだと思う。
そのころ、先生は施設に戻ることを、次第に拒まれるようになっていた。認知症が進み、言葉の多くは失われていた。それでも、心地よさと、そうでないものとを感じ分ける力までが失われるわけではない。先生の言動を忖度するとき、彼はどうしても、穏やかならぬものを感じずにはいられなかった。ここでは、それ以上を書かない。書けば断定になる。断定するだけの根拠を、自分は持っていない。
そして、あの日が来た。
いつもと同じように、彼は施設へ先生をお迎えに上がった。ところが、様子がおかしい。上がってみると、先生はまだベッドで寝ておられた。介護職員に尋ねると、昨晩、自室で転倒された、という。
頭に怪我をされていた。頭部が汚れていた。
頭を打った可能性がある場合、何の忖度もなく、救急搬送のほかに選択肢はない。それは介護の現場では初歩に属することである。ところが先生は、自室のベッドの上におられた。彼は直ちに搬送すべきだと施設に掛け合った。結局、搬送されたのは、その翌日のことだった。
搬送された病院で、頭蓋内の出血の疑いが持たれた。先生は集中治療室で治療を受けることになった。
初動が、その後のすべてを分ける。頭部の受傷を疑ったときに何をすべきかは、決して難しい判断ではない。それが動かなかったとき、そこには個々の職員の資質を超えた、構造そのものの限界がある。そしてそういう限界は、どこの施設にも起こり得る。特別な場所の、特別な出来事ではないのだ。
歳月を経た今、振り返って、思う。専門の目を持つようになった自分と、何の心得もないご身内と、まったく別の道をたどりながら、二人は同じ一点に行き着いていた。玄関先の一瞬に感じ取られたものと、あの朝ベッドの上で見たものとは、根のところでつながっていたのではないか。
生かされて、今を、存在する。だからこそ、大切な人を預ける場所を選ぶとき、どうか自分の目と、自分の直感を、軽んじないでほしいと願う。それを伝えるためだけに、自分はこの一話を書いた。
あの朝、ベッドの上で横になっておられた先生の姿を、今も、自分は、確かに、覚えている。
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