第五章・いのちの時代 連載第百二十話 あら、騒がしいわねエ

そのおばあちゃんは、憎めない、人だった。
いつも、にこにこ、している。けれど、その笑顔の、まま、とんでもないことを、しでかす。会話のような、ものは、できた。けれど、すぐに、通じる形では、なかった。言葉が、ふわふわと、宙を、漂って、なかなか、こちらの、岸に、着かない。認知症が、進んでおられた。
日頃から、よく、歩き回る、方だった。あちこちの、部屋に、入っては、何を、するでもなく、うろうろ、される。そして——ボタンが、あれば、押した。理由は、ない。ただ、そこに、ボタンが、あるから、押す。子供のような、ものだった。無邪気で、まっさらだった。
ある夜勤の、晩のことだ。
そのおばあちゃんが——ナース室に、入り込んだ。扉を、開けたのでは、ない。なんと、カウンターを、乗り越えて、中に、入ったのだ。あの、足腰で、どうやって。今でも、わからない。そして——そこに、あった、赤い、ボタンを、押した。
火災報知機だった。
とたんに、けたたましい、ベルが、施設じゅうに、鳴り響いた。彼は、パニックに、なった。どうして、いいか、わからない。火は、出ていない。けれど、警報は、鳴り止まない。彼は、まず、その、耳を、つんざく、ベルを、止めようと、した。必死で、止めた。次に、消防に、連絡を、入れようと、した。その——まさに、そのとき。
もう、消防車が、到着していた。
報知機は、押された、瞬間に、消防へ、通じていたのだ。数台の、消防車が、夜の、山の上の、特養に、駆けつけた。赤い、ランプが、回る。消防士たちが、降りてくる。彼は、しどろもどろに、事情を、説明した。した、はずだ。正直、その、あたりの、記憶は、もう、ない。ただただ、必死だった。
彼の、記憶に、残っているのは——三つだけ、だ。
火災報知機の、赤い、ボタンの、カバーが、破られていたこと。数台の、消防車が、来たこと。そして——その、騒ぎの、ただ中で。当の、おばあちゃんが、にこにこ、しながら、こう、言ったことだ。
「あら、騒がしいわねエ」
久しぶりに、聞いた、まともな、言葉だった。
彼は——力が、抜けた。怒る気にも、なれなかった。すべての、騒ぎの、張本人が、いちばん、涼しい顔で、いちばん、まともなことを、言っている。あなたが、押したんですよ、とも、言えなかった。ただ、おばあちゃんは、にこにこ、している。世界が、どれほど、慌てふためいても、その人だけは、静かな、岸辺に、いた。
四十年後の今、振り返って、思う。
あの夜は、本当に、肝を、冷やした。けれど、今、思い出すと、笑みが、こぼれる。そして——どこか、考えさせられる。騒いでいたのは、いつも、こちら側だった。消防車を、呼び、ベルに、慌て、青く、なって。当の、本人は、にこにこ、して、「騒がしいわねエ」と、言う。いったい、どちらが、世界を、正しく、見ているのか。認知症という、病は、ときに、そんな、問いを、投げかけてくる。あの、おばあちゃんの、無邪気な、笑顔を、彼は、今も、愛おしく、思い出す。
生かされて、今を、存在する。
カウンターを乗り越えて火災報知機を押し、消防車を数台呼んでおいて、にこにこと「あら、騒がしいわねエ」と言った、あの憎めないおばあちゃんを、四十年後の今、自分は、確かに、覚えている。
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