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至誠の覚醒 連載 第五十四話 無限の仕様

第 二 章 ・ 社 会 の 時 代
第 五 十 四 話

無限の仕様

― 二 つ の 思 想 、 二 つ の 単 位 ―

フォークリフトの仕様が、ほとんど無限に近かったという話は、すでに書いた。

マスト、爪、エンジン、適用加重、タイヤ、ウエイト、ドア——一台ごとに違う組み合わせを、毎日机の上で組み立てていた。同じ型番の二台が並ばない、というのが、若い日の自分の仕事の現実だった。これは、フォークリフトに限った話ではない。乗用車のラインも、本質は同じだった。グレード別、仕向地別、内装別、外装色別——ありとあらゆる組み合わせの中から、一台一台の仕様が立ち上がっていた。

当時、自分はそれを、ただ「ものづくりとは細やかなものだ」と理解していた。

細やかさを尊ぶのが、日本のものづくりの精神である——そんなふうに、漠然と思い込んでいた。しかし、ある日、現場でばらしの作業をしている人たちと話す機会があって、その思い込みが、少しずつ揺らぎ始めた。

◇ ◇ ◇

「日産とトヨタは、まったく違う考え方をしている」

そう教えてくれたのは、ばらしの現場の年長の方だったか、別の部署の先輩だったか——記憶のその部分はもう薄い。しかし、その方の話の内容だけは、半世紀以上経った今でも、はっきりと耳の奥に残っている。

たとえば、こういう話だった。

コンソールの中の時計が壊れたとする。乗用車の運転席の前、メーターパネルのあたりに組み込まれている、あの小さな時計である。これが故障したとき、日産の車では、極論すれば、その時計の部品だけを取り換えることができた。時計だけ。ほんとうに時計の本体だけ。針も、文字盤も、機械部分も含めて、その時計だけを単位として、外して交換するのが日産の流儀だった。

細やかである。

無駄がない。捨てる部品が最小限で済む。修理代も、原理上は時計一つ分で済む。日本のものづくりらしい、と当時の自分は思った。実際、日本のものづくりらしい、という見方は、ある意味で正しかったのだろう。

しかし、話には続きがあった。

時計を交換するためには、まず、その時計を取り外さなければならない。コンソールの中に組み込まれている時計を、車体に組み付けたままで取り外すことは、ほとんどできない。だから、コンソールを車体から一度外して、内部にアクセスし、そこから時計だけを取り換えて、もう一度コンソールを車体に取り付ける——という、長い工程になる。

時計一つの交換のために、コンソール全体を一度ばらす。

作業時間で言えば、これは決して短くない。一人の整備工が一台の車にかかる時間は、何時間にもなる。その時間ぶんの人件費が、修理コストに乗ってくる。部品代は時計一つ分で済んでも、工賃は決して安くない。これが、日産の方式の現実だった。

◇ ◇ ◇

同じ時計が、トヨタの車で壊れたとする。

トヨタは、まったく違う考え方をしていた。時計が壊れたら、その時計の組み込まれている部分——つまり、時計を含むユニット全体——を、ごそっと取り除いて、新品のユニットと入れ替える。時計だけを取り出す手間は、はじめからかけない。ユニットそのものが、交換可能な単位として設計されていた。

これは、最初に聞いたとき、ぎょっとする話だった。

時計だけが壊れているのに、ユニットごと交換するというのは、若い自分の感覚では、ものすごい無駄に思えた。まだ使える周辺の部品まで、丸ごと捨ててしまうことになる。なんて荒っぽいんだ、というのが、最初の素朴な反応だった。

しかし、その方は静かに続けた。

「時間を入れて計算してみると、トヨタのほうが安いんだよ」

言われてみれば、そうなのだった。

ユニット交換であれば、整備工は車体からそのユニットを外し、新しいユニットを取り付けるだけで済む。コンソールを開けて、内部にアクセスして、時計だけを抜き取って、また組み直す——という長い工程は、必要ない。作業時間が劇的に短くなる。短くなれば、工賃が下がる。下がる工賃のぶんで、ユニット全体の部品代を吸収しても、まだ釣りが来る——そういう構造になっていた。

同じ話は、別の場所でも聞いた。

キャブレターの針が、調子を崩したとする。針——燃料の流れを調整する小さな金属部品である。日産であれば、その針だけを交換できた。針一本だけ。これも、無駄がなく、細やかだった。トヨタは、キャブレターをまるごと交換する方向だった。針一本のために、キャブレター全体を外して、新品をつける。

そして、ここでも、時間まで含めて計算すると、トヨタのほうが安かった。

◇ ◇ ◇

この話は、若い自分の頭の中に、ある種の衝撃として残った。

それまで、ものづくりにおける「細やかさ」は、無条件に良いものだと思っていた。最小単位まで分解して、必要なところだけを修繕する——これこそ、職人の精神であり、もったいない精神であり、日本の誇りであると。しかし、トヨタの考え方は、その「細やかさ」の前提そのものを、別の角度から問い直していた。

細やかさは、何のためにあるのか。

部品の節約のためか、それとも、車を直すという全体の効率のためか。部品単位で見れば、日産の方式は無駄がない。しかし、修理という行為全体——部品代と工賃と所要時間と顧客の不便さを全部合わせた一つの絵——で見ると、トヨタの方式のほうが、結果として無駄が少ない。

つまり、両社は「何を最適化しているか」が、根本から違っていたのである。

日産は、部品を最適化していた。トヨタは、工程全体を最適化していた。同じ自動車を作りながら、設計思想の単位そのものが、別物だったのである。これは、技術の差ではない。思想の差だった。

◇ ◇ ◇

そう気がついて、自分の机の上のフォークリフトの仕様書を見直してみた。

マスト十種、爪数百種、エンジン四種、加重五段階、タイヤ各種、ウエイト各種——掛け合わせれば、組み合わせは万を超える。これを、一台ごとに細やかに組み合わせて、現場のラインに流す。これは、紛れもなく、日産の流儀だった。お客様の細かい要望に、できるだけ細かく応える。それが、自分の仕事の前提だった。

もし、これがトヨタの工場だったら、どうなっていただろう。

おそらく、仕様の組み合わせを、もっと粗いユニット単位でくくっていたはずである。「中近東向け標準ユニット」「製紙工場向け標準ユニット」「港湾向け標準ユニット」——いくつかの代表的な組み合わせを、あらかじめ「ユニット」として束ねておき、そのユニットの中での選択肢だけを顧客に提示する。一台ごとの組み合わせの数は、ぐっと減る。生産計画の机の上の混乱も、ぐっと減る。中近東部のかわいこちゃんがカラムを一文字書き間違えても、ユニットそのものは生きていれば、エンジンが別物に化けることはない。

これは、若い日の自分には、ほとんど考えたこともない発想だった。

無限の仕様の中で泳ぐのが、自分の仕事だと思っていた。仕様が無限であることそのものは、所与の前提として疑っていなかった。しかし、その所与の前提を、別の会社は、別の単位で組み直していた。同じ業界、同じ時代、同じ日本のものづくりの中で、別の世界観が並走していたのである。

◇ ◇ ◇

もちろん、日産には日産の理屈があった。

細かい仕様にまで応えることが、海外の現場の信頼を得る道であると——あのころの日産は、たぶんそう考えていた。フォークリフトの場合、現場の事情が国ごと、業種ごと、運転手ごとに違うのだから、それに細かく応えてこそ、ものづくりの誠意が伝わる。これも、一つの正しい思想である。間違ってはいない。

そして、両社のその違いは、その後の長い時間の中で、結果としてどう出たか——。

これは、半世紀以上経った今、誰の目にも明らかである。トヨタは、ユニット化と標準化の思想を、生産方式・販売方式・サービス方式の全体に貫いた。日産は、細やかさを誇りとしながら、ある時期から経営の軌道を外していった。村山工場が閉鎖されたのも、その流れの一部である。両社の差を生んだ要因は、もちろん他にも数多くあったろうが、若い日の自分が現場で耳にしたあの「単位の取り方」の差は、いまから振り返ると、その後の運命の分かれ目の、最初の徴候の一つだったように思える。

◇ ◇ ◇

この話は、若い日の自分の頭の中に、一つの問いとして残り続けた。

いま自分は、何の単位で物を見ているのか。部品単位なのか、ユニット単位なのか、工程全体の単位なのか、人生全体の単位なのか。一つの単位で見れば最適に見える選択も、別の単位で見れば、ひどく非効率かもしれない。逆に、一つの単位で見れば荒っぽく見える選択も、別の単位で見れば、最も賢いやり方かもしれない。

のちに、自分は為替の予測を仕事にした。

為替の動きを、一日単位で見るか、一週間単位で見るか、一か月単位で見るか、十年単位で見るかで、見えるものはまったく違ってくる。短期で勝とうとする人は短期の単位で見る。長期で資産を作る人は長期の単位で見る。同じ相場の同じ動きが、単位の取り方一つで、別の意味を持つ。

事業の設計でも、同じだった。

いま目の前のキャッシュフローで物を見るか、三年先で見るか、十年先で見るか——どの単位を取るかで、判断の中身が変わる。短期に見えれば守りたい支出が、長期に見れば省くべきものに変わる。逆に、短期に見れば贅沢に見える投資が、長期で見れば一番効くものになる。単位の取り方そのものが、経営判断の根幹だった。

人を評価するときも、同じだった。

今日の働きぶりを単位に取るか、一年の成果を単位に取るか、十年後の人物の輪郭を単位に取るか。短い単位で見れば動きの遅い人が、長い単位で見れば、もっとも信頼に足る人だったりする。逆に、短い単位で目立つ人が、長い単位で見ると、薄かったりする。人の真価を測るには、自分のほうが、長い単位の物差しを持っていなければならない。

◆ ◆ ◆

あの「日産とトヨタの差」の話は、若い自分にとって、技術の話ではなく、思想の話だった。

部品の話でも、修理の話でもなく、「人がものを見るときに、どの単位で見るか」という、もっと根本のところを問う話だった。半世紀以上が経って、もう日産も村山工場もあのころの姿を留めていないが、あの一つの話だけは、自分の頭の中で、今も生きている。

無限の仕様を、毎日机の上で組んでいた若い自分は、そのとき、自分が何の単位で物を見ているかを、まだ知らなかった。

知らずに、ただ細やかさを尊んでいた。しかし、現場で耳にした一つの話が、その当たり前の前提を、静かに揺さぶった。揺さぶられたまま、自分は仕事を続けた。続けながら、頭の片隅で、いつもあの「単位」のことを考えるようになった。

単位の取り方を間違えると、最適化はできない。

これが、村山工場の現場で耳にした一つの話から、自分が長い時間をかけて受け取ったことだった。今でも、毎朝、机に向かうとき、最初に自分に問う。今日のこの判断を、自分は何の単位で見ているのか——。その問いだけは、半世紀以上前のあの工場から、ずっと自分の手元にある。

(つづく) R080502
― 姓 名 科 学 の 殿 堂 ―
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