至誠の覚醒 連載第五十一話 工務部生産計画課
工務部生産計画課
工務部、という部があった。
名前はいかにも事務的だが、ここが工場の頭脳だった。現場のラインが今日どう動き、明日どう動くのか、その輪郭を決めているのは、現場の班長たちではなく、工務部の机の上である。班長たちは、組まれた計画通りに人と機械を動かすのが仕事であって、計画を組むのは、こちらの仕事だった。
その工務部の中に、いくつかの係があった。
生産計画係、部品計画係、部品購入部隊、工数を測る係、そしてCCR——生産ラインの中央制御である。それぞれの机が、同じ建物の中で、別々の時間を生きていた。
生産計画係は、自分の所属する係である。
何月に何台、どの仕様の車を、どの順番で組み立てるか——その大きな絵を引くのが、ここの仕事だった。本社の輸出業務部や国内営業の企画部から流れてくる注文を受け、それを工場の現場が動ける形に翻訳する。たいてい、机の上には注文書の束と、ラインの流れを描いた表と、月単位のカレンダーが広げられていた。
部品計画係は、その隣の島で動いていた。
こちらは、組み立てる車の一台一台に、必要な部品を結びつけていく。マスト、爪、エンジン、タイヤ、ウエイト——一台分の部品の組み合わせを「部品の山」として積み上げ、その山がいつ、どのラインサイドに到着していなければならないかを決めていく。生産計画係が決めた組み立ての日程を受けて、部品計画係はそこから時間をさかのぼり、部品が現場に届くべき日を逆算する。
そして、部品購入部隊。
部品計画係の弾き出した数字を受けて、海外の協力工場や国内の下請けに、実際の発注を投げるのがこの部隊である。船便と空輸の組み合わせ、現地の生産能力、為替の動き——いくつもの変数を抱えながら、毎日、紙とテレックスのあいだを行き来していた。
もう一つ、工数を測る係があった。
これがおもしろい仕事だった。複雑な仕様の車が組み立てラインに乗ると、組立工が一台にかける時間が長くなる。標準仕様であれば、一工程に二分かかるところが、特殊仕様だと三分半かかる。その差を、ストップウォッチで実測するのが、この係の仕事である。手元の時計を睨み、組立工の手の動きを目で追い、秒単位で数字を記録していく。記録された数字は、生産計画係に戻ってきて、翌月の工数の見積もりに使われる。
同じ工務部の中で、紙の上の数字と、現場の人間の手の動きとが、こうして毎日、行き来していた。
そして、CCRである。
CCR——セントラル・コントロール・ルーム。組立ライン建屋のほぼ中央に、二階に上がる形で据えられていた一室である。階段を上がり、扉を開けると、別の世界が広がっていた。
部屋の奥に、オフコンが鎮座していた。
あのころの工場で、コンピューターと呼んでいいものは、まだ数えるほどしかなかった。CCRのオフコンは、その数少ない一台だった。低い唸り音を立てながら、車体工程から、塗装、組立、オフライン、検査、そして出荷までの全工程を、数字の上で見守っていた。今、ラインのどこに、何号車が、どの仕様で流れているのか——その情報が、紙ではなく電気の信号として、この部屋に集まっていた。
壁の一面に、パネルがあったように記憶している。
細かいランプの並びで、ラインの流れが図示されていた。どこかの工程で滞留が起こると、そのあたりのランプの色が変わる。ぱっと見ただけで、今日のラインに何が起こっているかが、視覚的にわかるようになっていた。今でいうダッシュボードのはしりのようなものを、あの時代の工場は、もう持っていたのである。
パネルの前には、オペレーターの席があった。
数人が交代で座り、パネルを見続けていた。何かが滞れば、無線で現場の班長に連絡を入れる。何が起こっているのかをオフコンに問い合わせ、紙の上の計画と現場のずれを、リアルタイムで見つけていく。CCRは、工場全体の神経中枢だった。
そのCCRに、自分に妙に突っかかってくる先輩がいた。
背が小さく、少し猫背気味の人だった。年は自分より一回り上だったろうか。同じ工務部の人間ではあったが、係が違うので、毎日顔を合わせるわけではなかった。それでも、CCRに用事があって階段を上がっていくと、その先輩がしばしばパネルの前にいて、自分のほうを見た。
あるとき、その先輩は、こんなふうに言った。
「あいつは、芽を摘まねばならんな」
自分のことを言われているのだと、すぐにはわからなかった。
最初は、誰か別の人間の話だろうと思っていた。何度か似たようなやりとりを目撃するうちに、どうも自分の話らしいと気がついた。気づいたあとも、しばらくは意味が掴めなかった。新人として一所懸命やっているつもりだったし、何か特別に出しゃばった覚えもない。なぜ「芽を摘まねば」と言われるのか、わからなかった。
今になってみれば、おそらく、こういうことだったのだろう。
組織の中には、若手の動きを見て応援する人と、ブレーキをかけたくなる人とがいる。後者の人は、別に悪意があるわけではない。ただ、若い人間が伸びていくのを目にすると、何か胸の奥がざわつく——そういうふうにできている人がいる。その先輩は、おそらくそういうタイプの人だった。自分のどんな動きが、その先輩の何を刺激したのかは、今もわからない。
当時は、単純に苦手だった。
CCRに用事があるたびに、なるべくその先輩のいない時間を狙って階段を上がるようになった。それでも顔を合わせれば、ちくりと刺すような一言が飛んでくる。何か言い返すには、自分はまだ若すぎた。言い返せば、それこそ「芽を摘まねば」の理屈通りに、相手の手のひらの上で踊ることになる気がして、黙っていた。
黙ったまま、自分の仕事をしていた。
のちに、組織で働く時間が長くなるにつれて、似たような人に何人も出会うことになる。そのたびに、村山のあのCCRの先輩のことを思い出した。最初の一人を経験しているおかげで、二人目からは少しだけ落ち着いて受け流せた。最初に出会う「ブレーキ役」は、若い自分にとっての予防注射のようなものだった。
仕事に疲れると、自分は車体工場の奥に入り込んだ。
行き先は決まっていた。溶接ロボットの並ぶ一角である。何台ものロボットが、決まった軌道で腕を伸ばし、火花を散らし、また元の位置に戻る——その動きを、ただ眺めていた。誰にも声をかけない。ロボットも何も言わない。火花の青白い光だけが、規則正しく闇の中で散っていた。
あの時間が、何だったのかは、今もうまく説明できない。
頭の中の数字を整理していたわけではない。何か考えごとをしていたわけでもない。ただ、機械の動きを目で追っているうちに、頭の中のざわつきがゆっくり収まっていった。人間の話し声から離れた場所で、ものが何も言わずに動き続けているのを見るというのは、若い自分にとって、ちょっとした避難所だったのだろう。
ロボットを十分眺めると、自分は階段を上がってCCRに向かった。
パネルの前に立ち、オペレーターと一言二言、必要な確認をする。「芽を摘まねば」の先輩がいないことを横目で確かめながら、用件だけ済ませて、また階段を降りていく。降りるころには、頭の中はもう次の仕事に向いていた。ロボットの一角は、いつも自分を一度ほぐしてくれた。
同じ生産計画係には、もう一人、深く記憶に残る先輩がいる。
のちに自分を乗鞍のスキー場に連れて行ってくれた人である。優しい人だった。仕事には厳しかった。怒鳴るタイプではなかったが、いいかげんなものを出すと、静かに突き返してきた。突き返されたものを直すうちに、こちらの仕事の質が、知らないあいだに上がっていた。
その先輩との乗鞍の話は、別の回に譲る。
ただ、ここで一つだけ書き残しておくと、あの先輩と一緒に食べた乗鞍の蕎麦の味を、自分は今も超えるものを知らない。半世紀以上、いろいろな土地でいろいろな蕎麦を食べてきたが、あの一椀だけは、別格のまま動かない。仕事の厳しさと優しさを併せ持った人と、清流の脇で食べた一椀の蕎麦——それが、自分の舌の奥に、永遠の基準として座ってしまった。
同じ係の中に、こうも違う種類の先輩が並んでいた。
背の小さい、猫背の、芽を摘もうとする人。優しくて仕事に厳しい、乗鞍へ連れて行ってくれる人。職場というのは、結局、そういう人と人との配合でできている。自分がどちらを選ぶかではなく、両方の人と同じ部屋で過ごすうちに、若い自分の輪郭が、少しずつ削れたり、磨かれたりしていった。
工務部の中には、機械の時間と、人の時間と、紙の時間とが、別々に流れていた。
CCRのオフコンは、秒の単位でラインの動きを追っていた。工数を測る係のストップウォッチは、分の単位で組立工の手を測っていた。生産計画係の机の上のカレンダーは、日と月の単位で生産の絵を描いていた。部品購入部隊のテレックスは、週と月の単位で海外の工場とやりとりしていた。同じ建物の中で、これだけ違う時間が並走していたのである。
その三つの時間が交わるところに、自分の机があった。
秒の動きと月の動きを、同じ一枚の紙の上でつなぐ——若い日の自分は、それを毎日やっていた。当時はそんな構造的な見方はしていなかったが、今振り返ると、あの机の上で身についたのは、時間のスケールを自由に行き来する感覚だった。秒で動くものと、年で動くものを、同じ脳の中で同時に扱う。これは、のちの人生で、何度も使うことになる感覚である。
工務部生産計画課——名前は地味な部署だった。
しかしその地味な机の上で、自分は機械の音と、人の声と、紙のすれる音と、ストップウォッチの秒針と、テレックスの打鍵音と、そして「芽を摘まねば」と低くつぶやく先輩の声とを、毎日同時に聞きながら、一日を組み上げていた。あの音の重なりが、若い自分の聴覚を、少しずつ仕事の聴覚に変えていった。
半世紀が過ぎても、あの建物の中の音の層は、まだ耳の奥にある。
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