3. 幸福の本質:個を超えた「利他」による満足(武田邦彦先生の講演会より)3/3
今回、動物としての人間という視点での最後に「利己と利他」について触れたいと思います。 一般的には「自分が満足し、自分が健康で、自分の家族が充実していること」が幸福だと思われています。幸福とはあくまで「本人の問題」だという認識です。 しかし、生物の本質は「利他」にあります。一個体だけでは生きる価値がなく、少なくとも種全体の存続のために生きています。
より身近に言えば、日本のため、あるいは家族のために生きる。これが生物の基本です。 植物も群れて生息します。適した土地には強い種が、厳しい土地には弱い種が群生します。 我々の体が細胞の集合体であるように、日本が1億2000万人の集合体であるように、生物は常に「自分であり、他人である」のです。 だとすれば、自分一人が満足したところで、本当の幸福感は味わえないはずです。他人が満足して初めて、幸福感を得られる。
私自身、自分が満足するよりも、他人が満足している姿を見る方が嬉しいと感じます。「嬉しい」という感情、特に自分に向けられた満足感には限界があります。 何かを手に入れた喜びは短期間で消えますが、子供の成長や笑顔、一生懸命に育てる中での喜びは格段に大きいものです。 自分が大学に合格するより、子供が合格する方が嬉しい。自分のことは「まあ、そんなものか」で終わりますが、他者の喜びは心に深く響きます。
そう考えると、幸福の主体は「自分」ではないのかもしれません。 自分が病気をするより、家族が病気をする方が辛い。友人が苦しんでいれば心が痛む。 その意味で、幸福とは「利己」ではなく「利他」にある。ただ、これに代わる適切な用語が見つかりません。「幸己(さちこ)」ではなく「幸他(さちた)」とでも言うべきでしょうか。自分の幸せは、他人の幸せによって決定されるのです。
もし「我々の幸福とは、自分ではなく他人の幸福である」とするならば、幸福という概念そのものを考え直さなければなりません。 定義をこねくり回す必要はありませんが、言葉の整理は大切です。「ラッキー(幸運)」は客観的な事実を指しますが、「幸福」は本人の満足感を伴います。 明治時代に福沢諭吉らが「幸福」という訳語を当てる前は、「幸い」や「幸運」という言葉が主流でした。
いずれにせよ、現在の幸福の定義は「自分」に基づいています。 しかし、本当の幸福とは「他人が幸せになったことによる、自分の満足感」ではないでしょうか。 どういう状態が幸福かと問われれば、「他人が幸せな状態であること」と答える。こうした複雑な視点を持って、幸福を考えてみる必要があるでしょう。 私の人生を振り返っても、自分自身の成功より、家族や友人が幸せになったときの方が、遥かに幸福感は高かったと感じるのです。

(武田邦彦先生の講演会より)R080307