環境関係者の苦境
公害の世
一九七〇年ごろまでの先進国は、公害の世でした。日本だけでも、明治期に起きた栃木県・足尾銅山の煙害と鉱毒被害(一八九〇年)や愛媛県・別子銅山の煙害(一八九三年)から始まって、戦後の高度成長期には熊本県の水俣病(一九五六年)、三重県の四日市喘息(ぜんそく)(一九六一年 )、富山県・神通川流域のイタイイタイ病(同)、静岡県の田子の浦ヘドロ公害(一九六六年)などが立て続けに起こっています。
工業化や経済成長に忙しく、汚染を気にする余裕などなかったのです。私が山陰の田舎から上京した一九六六年は汚染のピークで、スカッと晴れた日はほとんどなく、多摩川は巨大なドブ川に見え、都心の神田川から悪臭が立ちのぼる……という調子でした。
二〇〇八年の北京オリンピックでは、開催地の大気汚染を日本のメディアが大騒ぎしています。新聞も週刊誌も、中国の環境対策をこぞって非難しました。けれど日本初のオリンピックを開いた一九六四(昭和三九)年の東京は、二〇〇八年の北京に比べ、大気汚染(たとえば二酸化硫黄の濃度)が三倍くらいひどかったのですよ。

環境の世
① 本気の時代
先進国はようやく一九六〇年代の末に、「俺たちは環境を汚している。これじゃあダメだ」と悟ります。日本は一九七〇年 一一月の臨時国会(公害国会)で一四本もの公害関係法案を可決し、汚染の監視と対策を始めることになりました。同じ年にアメリカは環境保護庁(EPA)を創設します。日本は一九七一年に環境庁(現・環境省)を、ドイツも三年後の一九七四年に環境省をつくりました。時期的に重なる一九七二年には、国連も国連環境計画という組織(本部はケニアのナイロビ)を創設します。
このように先進諸国も国連も、一九七〇年代の初め、本物の環境対策に腰を上げたわけです(なお「国連環境計画」という訳語も迷訳の類。同組織が何かしようと決めたとき、「……計画が計画した」という、珍妙な日本語になってしまうので)。
同じころ、工場の排煙から硫黄分を除く脱硫も始まりました。石炭や石油は太古の生物起源なのでアミノ酸由来の硫黄分を含み、それが燃焼のとき二酸化硫黄(亜硫酸ガス)SO2になる結果、四日市喘息などを起こしたのです。およそ一〇キロメートル四方の森を枯らした足尾銅山の煙害でも、SO2をそのまま吸った植物が枯れました。海外では、ドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)やアメリカの五大湖周辺など、大工業地帯に近い森が、同じ原因(SO2の直接アタック)で枯れています。先進国の脱硫が十分に進んだ一九八〇年代の中期以降は、木の立ち枯れもほとんど起きていません。
なお一九六〇年代に欧州の誰かが、木の立ち枯れを「酸性雨のせい」と誤解します。単純そうな話だったためたちまち世に広まり、教科書にも載って、メディアも大騒ぎしました。けれど酸性の水を使う栽培実験で木が枯れないとわかったこともあり、二〇年ほど前からメディア報道はありません。誤報だったと知ってはいるが、僕らの辞書には「訂正」も「謝罪」もないんだよ……と当時、某紙の記者氏が冗談っぼくつぶやいて、なるほどと納得でした。
一九七〇年代の初期から約一五年後つまり一九八〇年代の中期に、先進国の環境はずいぶんきれいになりました。以後の三〇以上、空気や水の汚染はほぼ無害レベルのまま推移しています。もちろん、汚染の監視と対策を、関係者が地道に続けてくださるおかげです。子どもに環境を語るなら、あやしい温暖化などではなく、およそ一九七〇年から八五年まで一五年間の苦労と成果こそ教えるべきですよ。

気候変動・脱炭素」14のウソ』渡辺正著(丸善出版株式会社)