スポーツだってそうです。
プロ野球の試合を例に挙げましょう。ピッチャーが9回裏ツーアウトまでノーヒットノーランを続けていたとします。点差は1点、1塁には四球のランナーが1人。ここで、続投させるのが正しいのか。それともリリーフと交替させるのが正しいのか。続投させて2ランホームランを打たれるかもしれないし、抑え込むかもしれない。それは誰にもわからないことです。
ここでの最終判断は監督だけに任されています。オーナーに意見を伺うわけにもいかないし、ファン投票で決めるわけにもいきません。もちろん、株主総会を開くわけもないですよね。
そんなことをしていたら野球にならないことは、誰もがわかります。
でも、何が「正しい」かなんて、その時点では誰もわからないのです。だから監督が決断をくだす。役割によって「正しさ」を決めなければならない、というわけです。
監督は「何が正しいか」という最終判断を下す権力(役割)を握っている代わりに、結果責任を取らされます。成績が悪ければクビ。役割を負っている側l 上司のことも考えてみてください。彼らは「仮の正しさ」を決める権利を持っていますが、その分、責任も重いのです。
例えば、あるサッカーチームで、キャプテンを選出したとしましょう。
このキャプテン――仮にDくんとしましょう――が、まったく何もしなかったらどうなるでしょうか。
キャプテンは、実行したり、命令したり、チームとしての「正しさ」を指し示さなければいけません。会社でいう「上司」の役割を担っています。Dくんはいつまで経っても、一切何も指示を出しませんでした。「役割」を放棄したのです。さあ、何もしないとどうなるでしょう?
個々人の考え方はバラバラですから、当然、チームはまとまりを欠きます。このサッカーチームは、強豪チームだったとしても、崩壊にいたるでしょうね。それだけ「役割」は重いのです。
役割を負っている人間は、「不作為」であってはならないということです。
上司や部下、監督と選手の間の「正しさ」について整理してみましょう。
正しさには「利己的な正しさ」と「利他的な正しさ」があり、利他的な正しさ、つまり社会で人との関係を順調にするための利他的な正しさは「神、偉人、相手、法律」で決まることはすでに説明しました。そのほかに特に日本社会の特徴として「空気的事実を元にした、間違った正しさ」や、「慣性力などの物理的法則に基づく正しさ」もあることも同時に頭に入れておく必要があります。それに加えて「専門家としての正しさ」や「科学者としての正しさ」はまた別のものであることもわかりました。
ところが、上司と部下、監督と選手の間の正しさは、これらの正しさとはまったく別で「仮の正しさ」として分類されます。
日常的な生活では、何が正しいかについていちいち神様に聞いたり、法令を調べたりすることはできませんし、「どのお客さまの所に最初に行くか」とか「ピッチャーを交替させるか」などは法令に書いてあるわけではありません。そこで「意見が違ったときに仮に正しいとする方法を決めておく」のです。これを決めるのが、上司、監督、学校の先生などです。
上司と部下、本当はどちらが正しく判断できるかわかりません。でも、仕事の上では上司が正しく判断できるという「仮定」をし、それを「職場で合意」して仕事を進めるというやり方をします。
この方法は「関係する人の魂を守る」という積極的な意味合いもあります。もし上司が決まっていなかったり、「意見が相違するときには上司を正しいとする」という合意がなかったり、このように意見が対立したときには、上司と部下はとことん議論しなければならなくなります。しかし時代背景や経験、それに個性がありますから、話し合ったら合意に達するとは限りません。
その場合は、「表に出ろ」と言って腕力で戦う必要があります(西部劇を思い出してください)。人間は復讐もしますから、殴り合いだけではケリがつかず、ついには「剣を取れ!」とか、「決闘だ!」ということになり、死を賭けて戦わなければなりません。
でも「仮の正しさ」を決めておけば簡単です。お互いに自分の信じること、自分が正しいことを変えずに、「上司が正しい」という約束事で片づいてしまうからです。このことを知っていると、人生はとても楽になります。仕事で上司と諍(いさか)いが起こることがないからです。一応、「私はこう思うのですが」と言えばそれでOKで、後は上司に任せておけばよいからです。
私がこのことを知ったのは35歳ぐらいだったと思います。それ以前は「自分が正しいと思ったことは正しい」と錯覚していたので、上司に不満がありました。その後は、自分に課せられている任務は何か、それはどういう合意になっているかということがハッキリわかるようになり、ずいぶん気が楽になり、周囲の評価も上がってきたのです。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より