明日には間違っているかもしれない「科学」
ここで2つの例を挙げましたが、科学技術は不思議な性質を持っていて、科学者の世界では「間違っていることもやがて正しくなるかもしれない」ということが、実は常識です。しかし一般の人の多くは、無条件に「科学は正しい」と思っている のです。
なぜ、研究をする のでしょうか。新しい発見を求めることが多いのですが、新しい発見というのは、いま自分の頭の中にあるものと違うことを見つけることですから、見つけたあとはいまとは考えが変わるはずです。
だから、毎日研究している研究者は、自分が目で見たり、考えたりすることは、「今日の時点では正しいかもしれないが、明日には間違っている可能性がある」といつも思っています。人類が電気というものを知り、エジソン が電灯を発明するまでは、人間は「夜になると暗くなる 」と思っていました。松明(たいまつ)や灯籠(とうろう)などはありましたが太陽の明るさとは比べものにならなかったのです。でも、電灯が発明されたあと、夜は一変しました。昼が12時間、夜が12時間として、6時間睡眠の生活をすると、電灯が発明されるまでは1日が12時間の生活でしたが、いまでは18時間となりました。さらに19世紀の半ばの平均寿命は40歳前後、いまでは
80歳ですから、人間の実質的寿命は、1日の活動量が1.5倍になり、寿命が2倍ですから、合計3倍の長さになったとも言えます 。
最近、多くの人が将来に悲観的になり、「いまの社会は持続性がない」と言われます。石油がなくなるとか、自然が破壊されるなどと心配しています。
その中でも、「持続性社会を作ろう」と声高に言う人の話を聞くと、「現在の人間が正しいと考えていることは正しい」と錯覚しています。それを指摘すると「確かにこれまでは人間は新しいことを発見してきたが、これからは発見されない」と言います。「それではノーベル賞はもう出ないの?」と聞くと、「そんなことはない」と言います。そこでさらに「それじゃ、新しいことでもないのにノーベル 賞をもらえるの」との質問には黙ってしまいます。
このように、自分が考えている「正しさ」が相互に矛盾していることは、かなり多く見られます。特に 日本人の場合、素直に育ちますので、他の人に何かを言われると「思考停止状態」になってしまい、それがいままで自分が習ってきたことと正反対でも、それはそれ 、習ったことは習ったこととして行動してしまうのです。日本人の特徴ですね。12月25日にキリスト教の祭典(クリスマス)に参加し 、それから5日後には日本の神道の例祭(新年例祭)に出て、その足で仏教のお寺に行ってお坊さまに護摩を焚いてもらう。このようなことなどが普通に行なわれていますし、イエス・キリストを信じていないカップルが神父さまの前で「愛することを誓います」と言います。おめでたい席で、私は批判したことはありませんが、イエスを信じて いない人がキリスト教の神の前で誓うというのは、どんな宗教を信じている人でも日本人でな い限り理解できないでしょうし、その「愛」自体がウソであることも間違いありません。
福島原発爆発とその後の日本の識者の言動を見ていますと、まるで、クリスマスも正月も一緒くたに祝う人たちゃ、信者でもないのに教会で結婚式を挙げるカップルを見るようでした。
いったい、日本に「正しさ」はあるのでしょう か?
もともと日本では 、「誠」は大きな徳目のひとつであり、自分の言動が相互に矛盾していないことを求めたものです。これについて、かなりの人は「このような矛盾は明治維新のときに、ヨーロッパの文明を取り入れたからだ」ということを言いますが、本当に江戸時代までの日本で「正しいこと」や「相互に矛盾しないこと」が重要と思われていたのか、私には疑問が残ります 。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より
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