私は研究者であり、教師です。真理に 殉ずる職業です。
「地球温暖化について、教師が生徒に教えるのはよくない」。私はよく、こんなことを口にして物議を醸すのですが、これは「真理」から見たジャッジです。地球温暖化というのは、学問としてまだ非常に歴史が浅く、しかもアメリカが自国の利益を考えて言い出した、という経緯があります。学問としてまだ、何が真理か定まっていません。それを、あたかも事実のように教えるのは、教師という専門家として正しくないのではないか、とこう思うわけです。
多くの専門家は、国からのライセンスをもらっています。門外漢からすると、専門家の領域は不可侵です。なかなか物を申せません。そうなるとどうなるでしょうか。専門家は常にそのことに意識的でないと、どうしても「殿さま」のような偉そうな雰囲気を身につけてしまうのですね。
原発の事故で、医師を含め、多くの専門家が、正しくない情報を流しました。これはいわば、専門家だからこそ陥ってしまった「正しさ」の罠だったというわけです。
わかりやすい例が、先日イタリアでありました。
〈多数の犠牲者が出た2009年のイタリア中部地震で、大地震の兆候がないと判断し被害拡大につながったとして、過失致死傷罪に問われた同国防災庁付属委員会メンバーの学者ら7人の判決公判が22日、最大被災地ラクイラの地裁で開かれ、同地裁は全員に求刑の禁錮4年を上回る禁錮6年の実刑判決を言い渡した。地震予知の失敗で刑事責任が争われる世界的にも異例の事件。同地震では309人が死亡、6万人以上が被災した〉
(2012年10月23日共同通信)
地震予知に失敗した学者が、有罪に問われたという出来事です。で、このことに関して、コメントを求められた日本の「学者」が何と言ったかというと、たいていの人が、「学問の自由をどう考えているのだ」と立腹しました。マスコミも、「学問の自由の侵害」という論調で、各社報じていました。
しかし私は、有罪のほうが「正しい」と思うのです。まずは、次ページの表を見てください。

表のいちばん上の段は「社会的必要性」です。正義とか、命を守るとか、真理を探究するとか、こういった「命令者」というものがおります。それらが社会に必要なのです。その下の段は「学者」です。原子力関係の学者もここに入りますし、法律を作る法学者、治療法を作る医学者、それから、真理を探究する科学者ですね。この列に関しては「学問の自由」が成立します。例えば、ハンムラビ法典の「目には目を」を日本でも法律化しよう、なんて議論を法学者はしてかまわないわけです。現在、安楽死は認められておりませんが、医学者は安楽死について研究しても咎められません。キュリー夫人は原子核反応を発見し、のちの原爆につながりました。ノーベルはダイナマ イトを発明しました。キュリー夫人も、ノーベルも、「戦争兵器につながるから、そんな研究はやめろ!」とは言われないわけです。
イタリアの例に話を戻しましょう。彼らが、研究者として地震を予知していたならば、別に罪に問われることはありません。それこそ「学問の自由」です。しかし、イタリアの地震学者は、「学者」として「地震が来ない」と発言したのでしょうか? 報道によれば、そうではありません。彼らは、「イタリア防災庁付属委員会」の委員として、発言したのです。もう一度、前ページの表を見てください。
彼らは、政府の機関のひとりとして、つまり「専門家」として発言したのです。人の行動に対し、権限や影響力を持っている立場、ということです。こうした立場から発言する場合は、「学問の自由」というものは適用されないのです。彼らは「専門家」ゆえに、その発言の責任を問われたのです。
「地球温暖化について、教師が生徒に教えるのはよくない」というのはそういう理由です。地球温暖化は学問としてはまだ定着していません。例えば、私が中学校などに呼ばれて環境問題の話をするときは、温暖化の話もリサイクルの話もしません。専門家としての教師の責任は、世の中で「正しい」とされていることを教えることです。学説として固まっていることを教えるのが使命なのです。
もちろん授業中に「説」を紹介するのは構わないと思いますが、それは「ひとつの説」だとはっきりと伝えなければいけません。自説を述べるのはもってのほかで、仮に生徒に話す場合は、「私の考えではー」と付け加えなければいけません。「社会」という単位で考えますと、「学者」だけではダメなのです。どんなジャンルにも、「専門家」がいなければなりません。
福島の原発事故で、いろいろな問題が一気に噴出しましたが、いちばんの問題は、原子力発電所に「専門家」がいない、ということではないかと私は思っています。
人の命を預かる医療現場ならば、最先端医療を研究する「学者」がいて、「専門家」である医師や看護師がいます。教育の現場でも、教育学者(学者)がいて、教師(専門家)がいます。法律でもそうですね。しかし、原子力発電という巨大な集団には、「学者」はいても、本当の意味での責任を持った「専門家」がいなかった、ということです。
放射能問題は、専門家不在が尾を引いています。例えば福島県知事は、「1年1ミリシーベルトに規制されると困る」と、政府に圧力をかけました。それに呼応するように、福島県で被曝関係に携わっている医師は、「1年100ミリシーベルトで大丈夫だ」と言いまた。
ひとりの医学者が、「1年100ミリシーベルトでも」と言うならばいいのです。これは「学者」としての発言ですから。しかし、福島県のブレーンになっている医師が、これを言ってしまってはダメなのです。もし、「1年100ミリシーベルト」に従って、将来、放射能の影響が人体に出たら、この医師は、必ずこれは、過失傷害罪にならなければおかしいのです。だって、法律が「1年1ミリシーベルト」と規定しているのですから。この数値がおかしいと言うならば、まずは法律を変えなければなりません。ソクラテスが思い出されます。原発事故直後、福島第一原発の放水口の近くで採取した海水から基準値の3355倍の放射性ヨウ素が検出されました。しかし、当時の担当の経済産業省の西山英彦審議官は、「周辺住民に直ちに影響はなく、海産物も人が食べるまでには濃度が薄まる」と言い放ちました。
端的に言うと、「問題ない」と断言したわけです。これは非常に大きな問題で、この発言によって専門家としての「正しさ」を捨ててしまったということです。以後、原発事故問題は、「専門家」不在で進んでいきました。それはいまも変わりません。
もし裁判官が、「法律にはそう書いていないけど、私が無罪と認めよう」と言ったら大問題ですよね? 審議官の発言はこれと同じです。規制値ははるかにオーバーしているけど「問題ない」と言ってしまったのですから。
人間社会は「正義、命、真理」などのように 大切なものがあり、それぞれ、法学者、医学者、科学者などの学者が、少しでも正義や真理に近づき、命を守ることを研究します。でも、それは「内的精神的活動」で、決して「直接的に社会と関係を持つ」ものではありません。
だから、その人たちが「内的精神的活動」として、「地震が来る」「被曝は1年100ミリまで大丈夫」「地球は温暖化する」などと言っても問題はありません。それは思想信条、学問、表現などの自由が認められているからです。
でも、国の地震予知委員会で委員が「地震は来ない」と言った場合で現実に地震が来たら、被害を受けた人に対して責任を取らなければなりません。
つまり、イタリアの事件は「現在の学問で地震の予知ができないのに、できるように言った」
というところに問題があり、「わからない」と言うか、もしくは「確実なことはわからないが、地震が来ない可能性もある」という範囲にとどめる――つまり学問的に証明された範囲での発言に限るべきだったのです。加えて「地震学者が国の予知委員会で発言してよい」ということが社会のコンセンサスを得ている場合に 限られます。
「安楽死」の研究は許されても、医療現場で安楽死をさせてよいかということを考えればより正確に理解できます。医学者が安楽死の研究をしないと、安楽死が必要なときに 実施できないので、学問の自由として認められます。しかし、患者に対して医師(専門職)が安楽死を施せるかというと、それは学会などの承認と社会のコンセンサスが必要です。
福島原発事故では、日本の法令や大臣が出す線量限度は「一般人で1年1ミリシーベルト」となっており、医学者が「私の研究では1年100ミリまで大丈夫」と言ってもよいのですが、福島県に関係する医学者や、社会に対して直接的な責任を持つ医師は、法令や大臣通達などにより制限を受けます。そして、万が一、1年1ミリから100ミリの間の被曝者が病気になったら、その責任は発言した人が取らなければなりません。そうしないと何のための法令や通達かがわからないからです。
それでは学者でも専門家でもない人が、「地震が来る」と言ったり、「1年100ミリでも大丈夫」と言ったりした場合、その責任を取る必要があるでしょうか ?
これは「場合によるが、好ましくない」ということになります 。家庭内とか、お酒を飲むときに気炎を上げるぐらいならよいのですが、社会的にある程度の立場にある人は、「準専門家」的な態度を取るのが正しいと思います。
例えば、学校の先生がかつての教え子が運転する乗用車に乗って、教え子に「制限速度は50キロだけど、もう少し出したほうがいいよ」と言えば、「犯罪教唆」にはならないでしょうが、誰もが「倫理的には不適切な発言」と思うでしょう。
社会の指導者は「法令に反することを他人に対して言ってはいけない。指導者として法令の改正を求めるときには、運転している人(当事者)ではなく、言うにふさわしい場(法令に関する意見聴取の場など)や論文や書籍などで求める」ということになります。
飲酒運転の撲滅のため、運転して帰るとわかっている人にお酒を勧めることも罰せられますし、友達と飲みに行って、飲んだ友人が運転する車に乗っても許されません。また児童虐待では、隣の家から子どもの異様な泣き声が聞こえて児童虐待ではないかと思うときには担当する役場などに連絡しなければなりません。
ソクラテスの話を通じて、「正しいこと」の中には「自分の考えの上に法令がある」ことがわかりますが、他人に法令を破ることを勧めたり、法令を守ることができない状態にさせたりすることも正しくないことがわかります。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より
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