現在の日本におりますと、平和主義というのが一番いいと、平和が一番いいというふうになっておりますが、必ずしも時代はそうではなかったのですね。事実、いまだに戦争という名の人殺しは、世界各地で行なわれています。そして必ず、「相手の政府が悪い」だの、「あの独裁者が悪い」だの、「正義」が持ち出されます。
人を殺すのは良くない、と皆が思っているのに、一部の正しさがまかり通って、相手の政府が悪いと、その国家の人を殺していいのだ、こういう理屈がまだいまでも通っているのです。
この理屈が、今後どうなっていくかというのは定かではありません。
なぜなら、「民主主義」ですら絶対でないからです。
アメリカを中心として、「民主主義は正義だ」という考え方が席巻していますが、世界各国を見渡すと、すべてがすべて、そう思っているわけじゃないことがわかります。それが証拠に、民主主義国家である日本の政治家やメディアが、平気で「この国は民度が低い」と言ってしまうのですから。民主的に選ばれた代表が政治を行なうのが民主主義なのに、その舟体である一般国民を馬鹿にしているのです。
実際、福島の原発事故の際、宮城県知事は、牛肉の安全性に対して、どんな数字を出すのかを聞かれ、こう言いました。
「安全であるということだけでよろしいかと思っております。健康上まったく問題のない数値であるわけですので、詳細な数値を出したところで消費者の皆さんは理解ができないわけでありますから、安全か安全でないかということだけはっきりと証明すれば十分だというふうに思っております」(平成23年8月22日/宮城県知事臨時記者会見)
一般国民にとって、数字はわからないと、だから、ベクレルなんて言ってもしょうがないんだ、とバカにしているわけです。
宮城県知事は一般国民(県民)の選挙で選ばれたのですから、民主主義の原理から言えば「知事より県民が偉く、知事は公僕に過ぎない」ということになりますが、その「下僕」が「ご主人」に対して、「どうせ主人はわからないから」と言っているのです。
これはすでに論理的にも破綻しています。つまり自分を選んだ県民がバカだということは自分を選んだことも間違っているので、自分は知事にふさわしくないということになるからです。
この話は時代時代、立場立場によって適当に利己的正義が使われ、社会が未熟であれば、多くの人がそれにダマされるという例を示しています。
結局、歴史的に一貫した「正しさ」など、存在しないということです。民主主義もまた、そうした「ある時代の正しさ」のひとつなのでしょう。民主主義が、この先50年後、100年後それは誰にもわかりません。だからこそ、民主主義国家に「正しい」とされているかどうか、のこの日本でも、「正しさ」をめぐってこれだけの混乱が起こっているのかもしれません。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より