第一話 自殺したソクラテスの正義

「正しさ」について考える場合、「いま」だけを見ていても、なかなかうまく捉えられません。
歴史の中で「正しさ」を見ていくべきじゃないかと、こう思うわけです。
さて、私たち日本人は法治国家に生きていますから、まずは、「法律を守ることが正しい」
ということが基本になっています。では、法律は常に「正しい」のでしょうか。
歴史を振り返ると、これが、必ずしもそう言い切れないのです。
例を挙げましょう。ソクラテスという哲学者がいます。ソクラテスは紀元前400年代にギリシャで活躍した、偉大な哲学者です。自分が知らないということを知っていることがすごいことなんだ、という「無知の知」などを唱えた人です。
偉大な人というのは、「変わっている」というのが相場で、この人もまた、変人でした。身なりはお世辞にもいいとは言えず、どちらかというとボロをまとっている。で、街をふらついては、誰かれ構わず議論をふっかける。
ソクラテスは、たくさんの言葉を残していますが、実はどれひとつとして、自分で書いたものはありません。ソクラテスの哲学は「書く」ことではなく、「話す」ことでした。話すことで思索を深めようとしたのです。ですので、今多く残っている書物は、全部、プラトンなど弟子たちが師匠との会話を書き記したものなのです。中国の孔子とそっくりですね。余談ですが、孔子の『論語』も弟子たちが書き残した師との会話の記録です。
このソクラテス、誰かれ構わず議論をふっかけるのですが、悪気はありません。真面目に、物事について考えているからこその行動です。しかも、「自分が知らない」ということを知っていることがいいことだと確信していますから、勢い、自信過剰な人間がソクラテスに議論を挑むと、打ちのめされます。打ち負かされた人は面白くありません。一方、若者はこのちょっと変な賢者に熱狂しました。ソクラテスの真似をして、議論を戦わすようになったのです。
ソクラテスに打ち負かされた人間(当然、政財界の実力者揃いです)は、ますます面白くない。面白くないどころか、そうした若者にも議論で負けてしまう。プライドはずたずたです。
自分のことをできると思っていた人間がプライドを傷つけられる。これはタチが悪い。このソクラテスを訴える人間が出てきました。罪状は、「若者を堕落させた」というものです。議論をふっかけるソクラテスのスタイルが、若者に悪影響を与えた、というのです。
裁判になりました。陪審員もいる、公開裁判です。
裁判で裁くということは、「法律」にのっとって「正しさ」を決めるということです。
ばかしい裁判だと、ソクラテスの支持者や弟子たちは思いましたが、仕方ありません。ではどんな裁判になったのか。このときの模様を描いたのが、有名な『ソクラテスの弁明』です。

もともと、プライドを傷つけられたと逆恨みしている人たちが起こした裁判です。ソクラテスが一言、「やり過ぎました。以後、気をつけます」なんて取り繕えば、八方丸く収まりました。
ところがこのソクラテス、相手の言葉の矛盾を突くというスタイルでした。取りようによっては「揚げ足取り」です。本人は真剣に、矛盾を解消していくこと=思索を深めていくこと、だと思っている。相手は矛盾に気づくことで「無知の知」を自覚しますから、議論している相手にとっても、ソクラテスにとってみれば、これはいい方法だ、とこうなるわけです。
だから裁判でも、同じことをしてしまう。もとより間違ったことをしていると思っていないから、謝ることもしない。
それどころか、裁判官の矛盾を鋭く突いてしまう。
デイベート合戦だったら、ソクラテスの勝ちだったでしょう。しかしこれは、陪審員のいるれっきとした裁判でした。謝りもせず、自分の意見をとうとうと述べるその姿は、反感を買ってしまったのです。結果は有罪。
しかも最悪の死刑でした。「正しさ」の権化であるかのような「法律」は、この偉大なる哲学者に「死」を宣告したのでした。

ジャック=ルイ・ダヴィッド 「ソクラテスの死」
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より