さて、この問題――なぜ「節電」が「良いこと」のように思え、「電力会社の独占」も日本社会で普通に受け入れられているのでしょうか? 正義という観点から見るとどのように見えるのでしょうか?
「正しさ」というのは「神様、偉人、倫理、法律」という4つがあると先に説明しましたが、これらは社会的な観点からの「正しさ」であり、生物学的な「正しさ」とは少し違います。
生物がこの地上に出現したのは37億年前とされていますが、最初は原始的な藻類で、いまの人間とは似ても似つかない単細胞生物でした。それがなぜ、「進化」というものによって人間のようなものに変化したのでしょうか?
それは「敵を倒す」こと、その一点だけでした。なにしろ「水や食料」「快適な場所」というのは限りがありますから、敵を倒してできるだけ有利な立場に立たなければなりません。
そのためには「より体が大きく、より情報が多く、体が老化するので子どもを作ってやり直す」という戦略を採り、それが正解でした。その結果、生物は「同じ大きさと情報量なら有性生殖が有利」であり、有性生殖なら「大きいほうが有利」で、さらに有性生殖であって体の大きさが同じなら「情報が多いほうが良い」ということで、人間のように「体が大きく、頭脳が発達し、男と女で子どもを作る」という生物が誕生しました。だから、生物にとって「敵に勝つ」というのは「正しい」ことです。もし敵に負ければ自分も子どもも、諸ともこの世からいなくなってしまうのですから。
「生物としての正しさ」が大がかりに発揮された最近の例が、「共産国家」です。
近代国家が誕生し生産量が増え、貧富の差が広がると、資本家と、その元で悲惨な生活をする多くの労働者を生み出しました。その当時の悲惨な労働者を、共産主義の産みの親のひとり、ドイツのエンゲルスが、1845年の著書の中で、次のように描写しています。

〈彼らには湿気の多い部屋や、床から水があがってくる地下室、あるいは天井から雨もりのする屋根裏部屋があてがわれる。彼らの家はしめった空気がながれでないように建てられている。彼らにはそまつでぼろになった、あるいはぼろになりかけた衣服や、質が悪くてまぜもののされた、消化の悪い食料があたえられる。彼らは極度にいらだたしい気分の変化、不安と希望との極度にはげしい動揺にさらされる。彼らは野獣のように駆りたてられ、休息やおだやかな人生の享楽を許されない。彼らは性的享楽と飲酒をのぞくいっさいの享楽を奪われ、そのかわりに毎日、精神力と体力をつかいはたすまで働かされる。〉『イギリスにおける労働者階級の状態』(岩波文庫 一條和生・杉山忠平訳)

こんな状態で不満が溜まらないはずもありません。そこでマルクスやエンゲルスが「共産主義」という新しい考え方を作り出したのです。それは「皆で平等に働き、その富はみんなに平等に分けよう」というもので、毎日、それを確認するために相手を「同志」と呼ぶことにしました。共産主義国家では、一番偉い主席や書記長でも、一般人を同志と呼びます。まさに「正しい社会」ですね。
ところが実際に共産主義国家を作ってみると、意外なことが起こりました。「みんなで平等に働き、富を平等に分配する」という誰が考えても「正しい」ことは行なわれませんでした。
共産主義時代のロシア(ソ連)では、書記長が庶民には手が出ない高級外国車を6台保有。現在の共産国家でも指導層が1000億円クラスの私財を貯め込んで外国に逃げるなどということが起きています。さらに、第二次世界大戦で敗れたドイツは、東ドイツと西ドイツに分割され、共産主義の東ドイツは衰退。1989年にベルリンの壁が崩壊し、東ドイツは西ドイツに吸収されました。そのときに東ドイツの代表的な乗用車は、西ドイツのベンツやフォル クスワーゲンなどに比べて24年ほど遅れていると評価されました。共産主義の上層部は、資本主義の上層部でもしていないような豪華な生活をし、庶民もまた仕事をさぼっていたのです。なぜ、こんなことが起こったのでしょうか?
この本の最初に整理した「正しいこと」を厳密に定義すると、「正しさ」とは「個々の生物である人間は集団性の動物なので社会を作ってその中で生活しなければならない。そのときに生物的な正しさを発揮すると全体の幸福が損なわれるので、それを補正する」ことであることがわかります。
つまり、電力会社が戦時中にできた独占体制を維持するために大量の「対策費」を「庶民の電気代」から出して身を守り、それの恩恵に浴する「政治家、マスコミ、学者」が協力して、その結果、庶民がアメリカに対して2倍の電気代を取られるという現状は、電力会社や政治家にとっては「正義」であることが理解されます。
「正義は人の数ほどある」と言いましたが、もちろん「正義は組織ごとに存在する」とも言えます。そうすると、「自分に有利な正義」という生物学的正義と、「社会としての正義」の両方を満足させる必要が生じ、そこに西洋の学問の存在価値がありました。この本では実例に合わせて「具体的なことと正義」についての説明をしていきますが、まずイギリスとインドの話から始めたいと思います。
有名な話に、イギリスがインドを植民地にするときに、いかにインド人がイギリス人とは違う野蛮な人間であるかを証明する必要があると考え、歴史学者や文学者などを動員して、「イギリスとインドの違い」を研究させます。その結果、違いがあるどころか、実は4000年ほど前にカスピ海の北に住んでいたアーリア人(インド・アーリア語族)が北西と南東に移動し、北西に行ったのがイギリス人になり、南東に移動したのがインド人だったということがわかったのです。思いもよらぬことでしたが、イギリスとインドの古い民話に共通点が多いことなどから「おかしいな?」と気がつき、徐々に歴史の「事実」がわかってきたのです。このとき、イギリスは「正義」をどのように考えていたでしょうか?
もともと日本での「正しさ」は「絶対的なもの」で、神が決めたもの、あるいは古い伝統で決まっていることという意識が強いのですが、民族が入り混じって戦ってきたアーリア系の人たちにとっては「正しさ」とは「正しいことを主張できること」であって、決して絶対的な正しさではないのです。だから歴史を調べて誰もが「ああ、なるほど。イギリス人は人間の中でも高級な人で、インド人というのは低級な民族なのだな」ということが説得できれば「イギリスがインドを支配するのは「正当」である」と言えるという考えです。
つまり、「生物学的正義」に従えば、「自らが有利になる正義」が必要で、それを「社会としての正義」との間で整合性を取らなければなりません。それに学問(理性)を使うのです。
ヨーロッパの学問はかなり素晴らしい武器で、到底考えられないことを正義に分類することができます。たとえば、わずか人口が1000万人ほどのイギリスが「七つの海」を支配する正当性、植民地のインドに 優れた若者が出現したらその手首を切り落とす正当性、インドから香料を輸入し、その代金をイギリス通貨のポンドで支払う正当性など、冷静に考えれば到底「正しい」とか「相手に聞く」と言うことではなく、まったく自分勝手な正義を世界に納得させたのです。
世界の多くの人を悲惨な人生に追い込んだイギリスの巨悪ですら、ヨーロッパの学問はそれを正当化する論理(詭弁)を弄することができるのですから、「原発がなければ日本の電気はまかなえない」とか「日本の電気は品質が良いので、トリックはいくらでも掛けられるのです。2倍の電気代は必要だ」というぐらいの「正しさ」を考える力をつけるために、例えば高等学校の「倫理」の教科書にはギリシャの哲学から始まり、主としてヨーロッパの倫理の学問がまとめられています。また日本では最近『……の正義』とか、『……の白熱講義』という、ヨーロッパの「正義」の考え方を解説する本が多く出版されています。日本人にはある意味で目新しいのですが、なんとなく日本古来の「恩、義、礼、誠」などの徳目と違うような感じを覚える人も多いでしょう。それは周囲と調和しようとする「利他的な正しさ」を中心とする日本の徳目と、自己中心的な「利己的な正しさ」で理論武装してきたヨーロッパの倫理学に大きな差があるからです。
こうした中、数ある理屈をどう取り入れれば、自分の人生を守り、幸福に過ごすことができるでしょうか? これから、少しずつ事実とともに整理を進めていきたいと思います。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より