ハル・ノートとして知られる「覚書」について書いておきましょう。ハリー・D・ホワイト財務副長官の書いた「一般餡」(原則論だけに強硬です)と 、コーデル・ハル国務長官の記したもの(暫定案だから妥協的です……例えば南部仏印の兵力は二万五千人以内とかいうように日本の乙案に対応したものでした)と二つの「ハル・ノート」が存在していたことが、この書でも確認できました。他の書は多くがこの点で混乱しています。ハル長官の記したものは日本に通告されていません。通告されたのはホワイト作成のものです。
ハル作成のものは極めて融和的なものであり、提示された中国・イギリス・オランダは一様に反発しました。それを確認したルーズベルトは、強硬な内容で日本が到底のめない「ハル・ノート」を日本にだけ通告したのです。英蘭支が知らない「ハル・ノート」に日本は絶望しました。牛場秘書官がバレていると忠告した暗号で東京のアメリカ大使館に伝えられ、解読した日本政府は絶望したのです。十一月二十六日にハル・ノートは野村大使に手交されましたが、東京の日本外務省は事前に解読して知っていたのです。日本は暗号を解読して親米英派は絶望し、沈黙しました。
だから機動部隊は一日前の二十五日に、ヒトカップ湾を出撃していたのです。
ハリー・D・ホワイト財務副長官はコミンテルンの要員だったことが確定していますが、日本には哀し過ぎる事実です。コミンテルン製のハル・ノートで日本は開戦を決意したのです(戦後に彼は「自殺」します)。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)
