日清戦争の後、三国干渉に頼り遼東半島を取り戻してもらった清国は、高いッケを払う羽目に陥っていました。清国哀れ、と言うしかありません。
一八九六( 明治二十九 )年、ロシアはニコライニ世の戴冠式に李鴻章を大使(大使としての資格を強要した)として招き、ロシア大蔵大臣ウィッテは対日攻守同盟の締結を迫りました。その結果、ロシア外相ロバノフとの間に攻守同盟が結ばれました(李・ロバノフ密約)。
この密約同盟は、日本が朝鮮・満洲を侵略する時には露清両国は共同して対抗すること、そしてそのために満洲におけるロシア軍の行動の自由を認め鉄道の建設を承認し、鉄道建設のために露清銀行を設立することなどが約されました。清朝皇帝にも、もちろん秘密です。
露清密約と称される諸協定はこの他に複雑多岐にわたる密約群ですが、簡単に言うと満洲の主権はロシアに譲るというものです。だから、ロシアは日露戦争の開戦直前に、ロシアは満洲全土に戒厳令を布告したのです。
シベリア鉄道の要所、ザバイカルからウラジオストックまで満洲を通り、鉄道が建設されました(東支鉄道)。この鉄道から、さらに旅順・大連へと延びる鉄道が南満洲鉄道と称されるようになるのですが、これらの鉄道網の完成の直前に露は開戦しました。
露清密約の成立を知ったドイツは、膠州湾を占領し九十九年の租借権を獲得し、山東半島の鉄道敷設権と鉱山の採掘権を得ました。フランスも、南支那の広州湾の九十九年の租借権を得ました。イギリスは、九龍半島の九十九年間の租借権を得ると同時に、旅順の鼻先の威海衛を租借地に得ました。
さて、小村寿太郎外相が桂・ハリマン仮条約を破棄して、遼東半島を租借し南満洲鉄道の経営権をロシアから譲られ、これを日本単独の経営としたことが、どのような厄災を日本に呼び込んだのでしょうか。
遼東半島の租借期間は、ロシアが清国から二十五年間として得たのが一八九八(明治三十二)年でした、一九〇五(明治三十八)年の時点で残された期間は十九年に過ぎませんでした。十九年後とは、一九二四(大正十三)年ですが、この七年後が満洲事変の年です。
日本が露清密約の存在を知ったのは、一九二〇(大正十一)年のワシントン会議の席で、中華民国代表が暴露したことからです。中国への欧米列強の反応は冷ややかなものだったと言います(中華民国外相・顧維鉤(こいきん))。
二十一ヶ条要求問題で、日本は散々に悪評を得ていました。この問題の根源の大部分は、日露戦争の処理の不手際に発していると言うしかありません。対米関係処理の失敗です。
再度言います。歴史の研究に「イフ・たら」は禁物と言いますが、ウソと言うべきです。
何時の頃から、こんなウソがまかり通るようになったのでしょうか。老婆の繰り言なら別ですが、歴史の研究の大きな裾野たるシミュレーションは「イフ・たら」の関数分析ではないでしょうか。朝鮮も満洲も、日本は米英と共同で、開発・経営すべきだったのです。
進出してきたアメリカの資本の安全は、日本の警察力・軍事力が保全するしかないのです。アメリカ人・ユダヤ人の安全についても、同じです。日本が本当に「王道楽土」の満洲を築くつもりなら、満洲人・支那人・蒙古人・朝鮮人・ユダヤ人との共働を真剣に考えるべきだったのです。ユダヤ人のおかげで、日本人は大ロシア帝国と戦うことができ、そして生存を保ち得たのです。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)