日本が陸に海にロシアを破る展開は、ルーズベルトたちには予想外の、そして不都合な事態でした。均衡・対立の連続こそが望ましい事態なのに、特に日本海海戦の日本のパーフェクトな勝利は、ルーズベルトたちには衝撃ですらありました。
だから、彼はハリマンを急いで派遣したのです。ハリマン自身も五百万ポンドの日本国債を買っていたし、彼には世界一周鉄道の「夢」の事業展開の構想がありました。ニューヨークーアメリカ大陸横断鉄道-太平洋航路-南満洲鉄道-シベリア鉄道-大西洋航路-ニューヨークという「地球交通」の実現という「夢」です。シフも当然にハリマンの事業展開に賛同していました。
一八九九(明治三十二)年、米国務長官ジョン・ヘイは、英独仏伊露日六カ国に対して「門戸開放宣言」として有名な通告を発していました。翌年の義和団事変に際しても、再度、門戸開放(つまりはアメリカの中国進出の機会容認)を強調していました。
ハワイ王国を併合し、フィリピンを支配し始めていたアメリカでしたが、しかし中国大陸への進出には決定的に立ち遅れていました。そこへ、日露戦争が勃発したのです。
日本は、ハリマン訪日の目的はもちろんのこと、アメリカの日本支援の本質について理解が不十分だったと言わねばなりません。これは第二の「三国干渉」なのです。この「三国干渉」理解の不在が、まさに千年の悔いと言うべきなのです。後半に詳しく触れましょう。それでも、日本は天皇の内諾を得て、桂太郎首相は南満洲鉄道の共同経営を基礎とする桂・ハリマン協定を成立させたのです。十月十二日でした。ハリマンは直ちに帰路に就きました。
二日後の十四日に小村寿太郎は横浜に着きました。帰路のハリマンとは、太平洋上ですれ違っているわけです。このすれ違いは、その後の日米両国の運命を象徴するかのようです。
仮協定の存在を知った小村は激怒し、破棄のために大車輪の活動を開始します。小村の反対理由は、表面的には二つです。
一つ目は鉄道権益などをロシアから引き継ぐには、清国の同意が必要であるという法律論です。清国もこれを声明していましたが、これはロシアの示唆によるものです。小村はこれを知りません。彼のみならず、露消密約の存在について日本政府全体が無知でした。
二つ目は十万人の戦死者と莫大な戦費を費やした「戦果」を、アメリカに提供するには国民の怒りを免れず、ひいては国家への忠誠心を損なうものだという点にありました。
しかし、小村は自分がアメリカで行ってきた二重外交にこそ、真の理由があることを語りませんでした。それは、シフやハリマンの最大のライバルのモルガン財閥との密約です。
この密約には金子堅太郎が加わっています。
モルガン商会は、ルーズベルトの従兄のモントゴメリー・ルーズベルトを通じて金子堅太郎に働きかけていました。モルガンの提案の主旨は次の二点です。
ハリマンとの共同経営は、疲弊した日本には不利でありへ資金力を比較してみれば明らかというのです。しかし、鉄道を日本自らが経営するならば、モルガン商会はまずは四千万~五千万ドルを前貸しするが、ただ機関車、車両、レールなどはアメリカから買って欲しいというものでした。ルーズベルト大統領も密かに支持している、との示唆もありました。
ルーズベルトの支持が欺瞞であることは、思慮をめぐらせば明らかでした。なぜなら、ハリマンの急派には駐日公使グリスコムの介在・共同行動があったからです。ルーズベルト大統領とアメリカの国家意思のありようは明白だったのです。
小村はポーツマス講和条約の「戦果」のなさに、心を痛めていたことは事実です。国民に対して済まないという自責の念が、彼の身を引き裂いたことは間違いありません。
小村寿太郎外相とは、そうした人格の人であったと、私は信じます。どこかの国の宰相のように、賄賂で満洲を売るような人物ではありません。
日本人は、先祖の政治家に対してこの程度の信頼は寄せてもよいでしょう。
しかし、問題は政治家の個人的な倫理・道徳に関わることではないのです。私は小村の評伝、伝記の類を読む度に「立派な人」との感想を幾重にも感じます。このことは、以下の小村評とは、別であることを、読者にはご了解いただきたいと願います。

小村の行為に、完全に私的な感情が介在しなかったかと言うと、私は疑問に思います。
根本は「日本人」です。講和の利の薄さに大暴動を起こし、戒厳令布告を招いたのは他の誰でもない日本国民なのです。
小村の胸に去来したのは、日本が鉄道の運転資金をモルガン商会から融資されれば、南樺太の領有とあわせてポーツマス講和条約に戦勝の果実の体裁を副えることができるのではないかという、日本国民への贖罪の意識だったのではないでしょうか。
言うまでもありませんが、小村の行蔵は彼だけのものです。
惜しまれるのは、伊藤博文の権勢の衰えです。枢密院議長に祭りあげられていた伊藤は、後に朝鮮統監として政界の中枢から去り、最期は暗殺されます。重複しますが、伊藤博文の命を奪った銃弾は安重根のものではありません。安重根はプローニング拳銃を五発発射していますが、伊藤博文の体内に残された銃弾はフランス騎兵銃の弾丸二発です(三発目は腹部を傷つけ体内には留まってはいません)。死亡したのは伊藤だけですが、他に四人が少なくとも十一ヵ所の傷を負っています。現場は多数の銃弾の乱れ飛んだ修羅場だったのです。伊藤博文のすぐ後ろに随行していた貴族院議員室田義文の「説明」や死体検案書には、上から撃たれたとあります。右腕を貫通した銃弾が下腹部に留まっています。つまり、上から撃たれたのです。(注)
ロシア大蔵大臣の招待により、ハルピンを訪問した伊藤博文の身辺警護は厳重なものであり、警護はロシア帝国の責任のもとで行われていました。そこヘピストルを忍ばせた朝鮮青年が三人も紛れ込むという話は面妖だと、事件当時から喧しい議論があったのです。
ロシア帝国の謝罪を容れて朝鮮人の「下手人」が処刑されたという政治的「判決」の噂は、百年後の今日も消えません。付言すれば、朝鮮併合は米英の内意でした。ポーツマス講和会議の席上でもルーズベルトは公言しています。露韓密約などの朝鮮外交の「不道徳」が日露戦争の直接的な原因だと指摘し、ルーズベルトは保護国化の必要を公言しています。
そして桂・ハリマン協定を敷衍すれば、満洲の安定は朝鮮の安定と不可分との米英の分析は、さすが帝国主義の老舗の帳簿のなせる業(わざ)です。
日露開戦前の日本に、戦後の満洲朝鮮経営のデザインは不在でした。ハリマンたちは違うのです。最も多数のユダヤ人が住み、最もひどく迫害されているのがロシア帝国内でした。ハリマンの「夢」とされる「地球交通」の実現は、ロシア帝国内に鉄道を貰通させることにあったのです。移住の自由すらなくポグロム(町・村の襲撃と皆殺し)が繰り返されるロシア国内に、鉄道を運行し同胞を救いたいとの「正義の投資計画」を意味する桂・ハリマン協定の無慈悲な破棄は、小村寿太郎には無慈悲とは通じなかったようです。
ニューヨーク―アメリカ大陸横断鉄道―太平洋航路―南満洲鉄道―シベリア鉄道―大西洋航路―ニューヨークという地球交通とはユダヤ解放に寄与する「夢」の事業展開でもあったのです。この章の後半にも詳しく触れます。
ところで、伊藤博文を殺したのは誰か。安重根たちを手先にもつ大きな勢力だったろうと言うしか、今の私にはありません。
桂・ハリマン仮協定に賛成し、協定の成立を急がせたのは伊藤博文や井上薫たちでした。
伊藤博文は死に、桂太郎は「護憲運動」で失脚します。
日本は、日露戦争を戦う前に戦後の満洲経営を本格的に研究した形跡はありません。ただひたすら、満洲での防衛戦の勝利のみが念頭にありました。日本は満洲権益をロシアと奪い合ったのだという史観がありますが、歪んだ史観と言うしかないでしょう。
ポーツマス講和条約により、突如として満洲が日本の眼前に広がっていたのです。ロシアに制圧されていた朝鮮半島も、ともに日本の眼前に横たわっていました。日露戦争はロシアが朝鮮を制圧しようとした寸前に、日本が開戦を決意したものでした。
つまり、日本には満洲や朝鮮を経営する計画も準備も、ともに不在だったのです。
英米両国は、戦後の満洲経営の構想を見据えて戦局を眺め、日本支援の姿勢を保持していました。さすが、帝国主義の老舗だったわけです。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)