高橋是清という人を、日本人は自分が今日生存していることの恩人と想起するべきです。
一九〇四(明治三十七)年には、日銀の副総裁でしたが、日露の開戦と同時に戦費調達の任を帯びて渡米しました(二月二十四日横浜発)。日本の生存を背負った旅立ちでした。
ニューヨークでの戦時国債の発行は不調に終わります。パリ・ロンドンでも、開戦と同時に日本の公債は暴落していました。おおかたが日本敗戦を予想していたからです。高橋是清はイギリス政府からも起債を断られました。
当時のヨーロッパには、日露戦争を白黄の戦争と見る傾向も強く、イギリスのみが日本の公債を引き受けるのを尻込みする雰囲気がありました。百年前とはそうした時代だったのです。しかも、ロシアの帝室とイギリスの王室は姻戚関係にありました。

英国の銀行団は、やっと五百万ポンドを限度に承認しました。高橋是清が当面命じられていたのは、その倍額でした。失意の高橋是清に、面会を求めてきた一人のアメリカ人がいました。ニューヨークのクーン・ロブ商会の首席代表・ジェイコプ・シフと彼は名乗りました。高橋は初対面でしたが、ジェイコプ・シフと名乗る人物は、実際には事前からずっと高橋是清日本特使との対面を計画していたのです。
翌日、シフは五百万ポンド全額を引き受けると申し出ました。
ジェイコプ・シフは、鉄道王と称されたエドワード・ハリマンと提携してアメリカ南西部を中心に鉄道事業に投資し、大陸横断鉄道の完成に成功していた銀行家でした。
彼の最大のライバルがあのJ・P・モルガンです。モルガンの鉄道事業は、東部と北西部をテリトリーにしていました。あとで詳しく触れます。
シフは全米ユダヤ人協会会長として、同胞を迫害し続けるロシア帝国に対抗するためにアメリカ政府に接近していました。日露戦争の勃発を控えて、シフは全米のユダヤ人指導者(ラビたちを含む)を集めて、日本支援の承認を得ていたのです。
ロシアの銀行家たちが、自国の中期国債の起債を頼みにきた時、シフは言下に拒否しています。
一九〇四(明治三十七)年五月一日、日本の第一軍は鴨緑江渡河作戦に成功し、朝鮮半島からロシア軍を駆逐しました。この序戦だけで日本は国家予算の三・七倍を費消しています。
第一回戦時外債一千万ポンドは、ロンドンとニューヨークで売り切れました。ロンドンではロスチャイルドとジェイコブ・シフらのユダヤ人たちが中心に買い支えた結果です(ロスチャイルドとシフの関係については、あとで触れます)。他方で、ロシアの外債は暴落を続け、戦費の不足に悩み続けることになります。ロスチャイルドやシフたちの妨害によるものです。
十一月十日にはなんと、一千二百万ポンドの第二回外債が売り切れたのです。
一九〇五(明治三十八)年の元旦、旅順要塞が陥落しました。
ロシア全土にストライキなど不穏な動きが強まります。明石元二郎やレーニンたちは必死だったのです。三月二十二日、血の日曜日事件。
三月十日、奉天会戦で日本軍勝利のニュースが世界を駆けめぐります。途端にドイツ皇帝ウイルヘルム二世がモロッコを訪問し、露仏関係に干渉する姿勢を示しました。フランスは敗戦続きの露に対して、金融支援の継続について難色を示しました。帝国主義時代の常で干渉はつきものです。日本は英米の支援を得ているから他の列強からの干渉は来ません。干渉は米英からしか来ないとの覚悟は、日本には極度に弱かった。千年の悔いです。
三月二十五日、第三回外債三千万ポンドが売り切れます。
五月二十七日-八日、日本海海戦でロシア艦隊全滅の報が世界を驚かします。世界第二位と目されたロシア海軍は海上から消滅したのです。
七月八日、第四回外債三千万ポンドが売り切れました。
四回に及ぶ外債の完売により、日本はなんとか日露戦争を戦い得たのです。
三月二十日、奉天会戦の後、金子堅太郎はルーズベルトに会い、講和斡旋を依頼しますが、ロシアは回航中のバルチック艦隊に期待を繋いで講和には応じようとはしません。
三月二十八日、児玉源太郎満洲総軍参謀長が東京に現れ、「進軍不能」を伝えます。「残弾なし」というのだから痛ましいものです。
四月二十一日、政府は講和の条件を決定。
五月三十一日、日本海海戦の結果を受け、小村寿太郎外相は高平駐米公使に打電。
「講和につき米大統領に一任すべし」
八月十日、こうしてポーツマス講和会議が開始されます。
八月二十九日、樺太の南半分の割譲、朝鮮における日本の優先的権益の承認、南満洲鉄道の割譲、遼東半島の租借権の割譲、の四点が合意に達しました。
九月五日、ポーツマス講和条約の調印。
日本全土に、講和反対の暴動が広がり、戒厳令が布告されます。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)