村山富市という社会党委員長、そして首相がいました。土井たか子という元社会党委員長が当時の衆議院議長でした。このご両人が主役になって、一九九五(平成七・終戦五十年目)年の六月九日(金)、衆議院では「国会での謝罪決議」がなされようとしていました。
提案者は村山首相、議長は土井氏です。議場は緊迫していたようです。与野党とも分裂投票になる模様で、そして多くの議員は、決議は採択されないだろうと思っていたようです。
折から本日は採択しないとの「通知」があり、多くの議員が退席しました。金曜日ですから選挙区に帰る議員が多かったのです。ところが反対派の議員が退席したのを見計らったかのように、土井議長は会議再開のベルを鳴らしました。
午後七時五十三分、山崎拓氏らが提案し、あっと言う間に「可決」し、五十九分に散会しています。二百六十五名の欠席者を出したまま、賛成二百三十名で「謝罪決議」は「採択」されました。議員総数は五百九名だったので、定足数に満たないままの強行「採択」でした。
首相や議長が日本国家を謝罪させようとした政策は、定足数にすら満たない議場での「採択」でした。そこで次に首相は、日本国総理大臣が謝罪するという挙に出ました。
八月十五日、閣議の席で首相は事前の説明なしに用意した談話を、古川貞二郎官房副長官に朗読させました。閣議の席は静まりかえったと聞きます。
「我が国は遠くない過去の一時期、国策を誤り戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。……ここに痛切な反省の意を表し、こころからお詫びの気持ちを表明致します。……」
村山首相は談話の中で「信義を施政の根幹とする」と述べましたが、哀しい限りです。
村山富市氏は首相の座に就くや、それまでの自衛隊違憲論を弊履のように放棄し合憲に変身しました。社会民主党(現社民党)大会で違憲論が確認されると、また違憲論に 変身し周りから問われて述べました。
「連立政権の維持のためにはやむを得なかった」
国軍の存立の根幹より「連立政権の維持」の方便を優先させるメンタリティだからこそ、日本国家の謝罪をクーデターまがいの術策で遂行できるのです。また、折から起きた阪神淡路の大震災の危機に臨み、地元の必死の懇請にもかかわらず自衛隊の出動を遅延させ、数千の人命を空しく失わせることができるのです。彼は周りから問われてこう言いました。
「なにせ初めてのことじゃったからのお」
初夜の童貞ではあるまいしと、ある漫才師が笑わせていました。
とにかく村山談話は、日本の今日と将来に巨大な禍根を残すものです。談話の出自からして怪しいものですが、小泉首相も安倍首相も踏襲を表明しています。禍根の巨大さについて触れます。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)
