もう―つの悪、すなわち世界中に革命の動きを引き起こしたイルミナティのもう―つの部門がシオニズムである。シオニズムの目的は、世界中のユダヤ人の力を―つの運動に結集し、至高の世界支配権力としてイスラエル国家を建設することにあった。
ソロモンの神殿を再建し世界中の富を蓄えることはフリーメーソンの公然たる目的でもあったから、シオニズムはもともとフリーメーソンから生じたといえよう。
当初この動きは「ユダヤ教改革派」と呼ばれた。グレーツ『ユダヤ人の歴史』には、「ユダヤ人フリーメーソンの最初のロッジはフランクフルト・アム・マインに置かれたが、ここがユダヤ教改革運動の中心となった」(第五巻六七四頁)と記されている。
一八四二年、フランクフルトにあったユダヤ教改革派の「友の会」は次のような指針を打ち出した。
①バビロニア(タルムード)の律法的権威の否定
②救世主によるエルサレムヘの帰還の否定
③日常語による会堂典礼
④会堂における男女区別の廃止(ユダヤ教正統派が常に求めてきた男女区別を撤廃、女性が男性の隣に座ることを認める)
ユダヤ教改革派はシオニズムの外にも、エキュメニズム(全宗教間協力推進運動、他の宗教の指導者や信徒との積極的協力)やフェミニズム(男女平等運動)などの計画も実行に移している。
だが、何よりも重要なことは、ユダヤ人のエルサレム帰還を導くべく救世主が地上に出現することはないと認めた点(②)であった。
救世主によるユダヤ人救済の否定というこの考えこそが、政治行動によってエルサレムヘの帰還を果たそうという試み、すなわちシオニズムヘと門戸を開いたのである。
政治的シオニズムという計画をはじめて唱えたのは、フランクフルトのマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの親しい仲間であるラビのカリシャーであった。英国のモーゼス・モンテフィオーレ男爵やフランスで首相にもなった「万国イスラエル同盟」創立者のアドルフ・クレミューがこの新たな運動に弾みをつけた。
アドルフ・クレミュー
カール・マルクスの親友だったモーゼス・ヘスの著書がこの運動の目的を大々的に宣伝した。ソヴィエト政府がイデオロギー的にはシオニズムに反対していた事実に鑑みると、これは皮肉な話ではある。モーゼス・ヘスは「シオニズムの父」として知られるようになった。ヘスの著書に大きな影響を受けて新聞記者のテオドール・ヘルツルは行動主義へと転向したが、今日ヘルツルが「シオニスト国家の父」と言われるのはご承知のとおり。「ユダヤ百科事典」(Encyclopeadia Judaica)の解説によれば、モーゼス・ヘスはパレスティナヘのユダヤ人植民を求めて改革派運動を指導したユダヤ人社会主義者・国家主義者となっている。ちなみに、大量に出回ったヘスの主著『ローマとエルサレム』こそ、テオドール・ヘルツルに大きな影響を与えたという本である。
プロイセン中北部のトルンに拠点を移していたラビのカリシャーは一八六〇年に、ある秘密会合を自宅で開いた。一八四八年の革命から得られた教訓を検討するためである。当初の目論見では、革命によってヨーロッパのすべての政権を打倒し共産主義の政権に取って代えることを目指していたのだが、成功したのはダニエル・マニーニが共産主義政府を樹立したヴェネツィアなどのごく数例にすぎず、相互に連繋もなかった。
トルンにおける会合の成果として生まれたのが、翌一八六一年に出たカリシャーの著作『シオンを求めて』(Drishal Zion)と、それよりやや遅れて出たモーゼス・ヘスの『ローマとエルサレム—最後の国民的課題」(Rom und Jerusalem, die Letzte Nationalitatsfrage, Leizig,1862)であった。この二冊の本がヨーロッパ在住ユダヤ人たちをしてシオニズム計画すなわちパレスティナをユダヤ人の手に奪還するという政治目標へと向かわせた元凶だと言っても、ほぼ間違いあるまい。
一八六〇年のトルンの会合に出席していた陰謀家たちの中の一人がモーリス・ジョリという名前のフランス人作家に会合の議事録を洩らしてしまった。その犯人は万国イスラエル同盟の会長アドルフ・クレミューの側近だったE・ラハラーヌなる人物ではないかと見られている。
フランス政界の大立者だったクレミューはこのラハラーヌをナポレオン三世の個人秘書という地位に就けてやったことがある。
[定本]『シオンの議定書』四王天延孝原訳 天童竺丸補訳・解説 成甲書房
昭和十六年(一九四一年)刊「猶太思想及運動」附録第三「シオンの議定書」を底本とした。
http://michi01.com/index.html