忠敬の先生の至時は幕府の天文方でした。四十歳の時オランダの新しい暦法の書物を得たので、わずか半年の間に、不十分な語学の力でそれを読み終わった上に、その書物について著述までもしました。もとから病身であった至時は、この激しい勉強のために大そう健康を損じて、翌年亡くなりました。

至時は忠敬の根気のよいのに感心し、特に力を入れて教え、また後には北海道その他の測量を忠敬にさせるように幕府にとりなしました。そうして新しい知識を得ると、すぐ 忠敬にそれを伝え、忠敬はすぐまたそれを実地に応用して、師弟一体になって学問のために力を尽くしました。至時の死んだ時には、忠敬は非常に力を落としましたが、先生の教えを空しくしてはならぬと思い、

その後は一そう骨折って、とうとう日本全国測量の大事業を成しとげました。忠敬は七十四歳で亡くなりましたが、死ぬ時に「自分にこれだけのことが出来たのは全く高橋先生のおかげであるから、自分が死んだ後は先生の側に葬ってもらいたい。」と家族の者に言いのこしました。今でも浅草の源空寺には、この師弟の墓が並んで立っています。(六年生)

『国民の修身』監修 渡辺昇一