昔山城の川島村に儀兵衛とぃふ人がありました。生まれは京都でしたが、生まれるとすぐこの村の貧しい家にもらはれて来ました。十歳の時、養父に死別れ、それから三十九年の間、身體の弱い養母に事へて、一心に孝行を盡しました。
家には少しの田地もないので儀兵衛は人に雇はれて農業の手傳などして、やっとくらしを立てました。毎朝早く起きて母の食物やつかひ水などをそれぞれ用意して、仕事に出て行きました。仕事がすむと急いで歸って來て母に安心させ、毎夜湯をつかはせ、又身體をなでさするなど、何事にもよく氣をつけていたはりました。
儀兵衛は貧しい中にも、母だけには着物や食物に少しも不自由させないやうに心がけ、母のたべたいといふ物はすぐにととのへ、母のこころよくたべるのを見て喜びました。又母の氣づかひさうなことは、なるたけ聞かせないやうにし、母の喜ぶことは骨身を惜しまず何でもしました。
人に雇はれて京都や伏見に行き、用事がひまどって歸りがおそくなることもありました。そんな時には、母は待ちかねて、歩行も不自由なのに、杖をついて半町ばかりも迎へに出て待ってゐます。やがて歸つて來た儀兵衛の顔を見ると、母は大そう喜んで涙を流し、儀兵衛も母の迎をありがたがつて涙をこぼし、二人とも、ものも言へないで立ってゐます。しばらくして儀兵衛は買って來た士産を母に渡し、手を引いて家に歸つて行きます。近所の人はこのやうすを見て誰でも感心しない者はありませんでした。
この孝行のことが時の天皇の御耳にはいつて、儀兵衛は御褒美をいたゞきました。
『国民の修身』監修 渡辺昇一