いったい古人もしばしばいっているように、仏教への門は、所詮「信」であります。信ずる心です。しかも信とは、愛し敬うこころです。仏教を愛し、敬い、これを信ずる心がなくては、とうてい、仏教をほんとうに知ることはできないのです。合掌する心持、南無する心、それはいずれも信心のしるしです。信仰の象徴です。南無とは、決して南無(みなみな)しではありません。
坊さんがお経を読む時に、唱える枕詞でもありません。南無とは、実に帰依することです。帰命の精神です。相手を絶対に愛し敬い、信頼することです。しかもその南無の心を形によって示したものが、「合掌」です。拝むことです。
「右仏左は我と拝む手の、うちぞゆかしき南無の一声」
と古人は教えています。両手を合わす右の手は仏陀の世界です。左の手こそ、衆生の自分です。かくて、この両手を合わし、南無の精神に生きる所に、はじめて、私どもは、ほんとうに仏我れにあり、我れに仏あり、との安心を得ることができるのです。いくらラジオの放送はあっても、これを聴く機械を持たない人には、ないと等しいのです。しかもたとい聴く機械があっても、スイッチを入れておかなくては、機械がないと同じです。常恆(じょうご)不断に、絶えず放送しておられる、仏の説法も、「合掌」と言う機械があり、「南無」という電流を通じてこそ、はじめて、はっきりと聞くことができるのです。にもかかわらず、とかく私たちは、どういうものか、ひたすら科学的立場から、ものを見ることになれて、ただ、聞こえないから、ない、見えないから、ないとすぐに判断してしまうのです。
しかし、ものが見えないから、ないのではありません。見ないから、ないように思うのです。聞こえないから、ないのではなくて、聞かないから、ないと思うのです。見ようとしないもの、聞こうとしないものには、何事もないと同様です。いったい機縁というか、契機というか、機会というか、とにかく「縁」というものは不思議なものです。
「縁なき衆生は度し難い」
などと、昔からいっていますが、縁のな いものには、如何ともし難いのです。西洋の諺にも、
「機会(チャンス)は前の方には毛があるが、後には毛がない。機会が来た時、捕えればよいが、一度とり逃がしたら最後、脚(あし)の早いあのジュピターの神でさえ、捕えることができない」
といっております。全くその通りです。私どもには、機会の来るのを待つ、時節の到来を待つ、待機の姿勢が必要です。運は寝て待て、ではなくて、少なくとも練ってまてです。かりに説くべき人があっても、聞くべき人がなければ、説くことはできません。また聞くべき人はあっても、説くぺき人がなければ、聞くことができないのです。説く人と、聞く人との因縁が相応し、和合する所に、はじめて聞く事もでき、説く事もできるのです。何事も、世の中の事は、みな「縁」です。しかしその「縁」は、たちまちにして来り、またたちまちにして去るのです。因緑はすべて「一期一会」です。聴くべき時に聞き、味わう時に味わわねば、いつになっても聞く事もできなければ、また知る事もできないのです。世に「急いで結婚して、ゆっくり後悔する」という諺もありますが、それはあながち結婚にかぎったことではないのです。いたずらに急ぐ必要もありませんが、しかし、「仏法には明日というぺきことあるべからず」と古人も誡めています。いつもいつも、「明日」と約束ばかりしていると、永遠に仏教を味わい、人生のほんとうの意味と価値をあきらめずに死んでゆかねばなりません。すべからく私どもは因縁に随順してすみやかに般若の智慧を磨く事によって、まさしくさとりの世界をハッキリ味得せねばなりません。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)