ところで、ここで問題になるのは「呪」ということです。呪とは口偏に兄という字ですが、普通にこの呪という字は「のろい」とか、「のろう」とかいうふうに読まれています。で、「呪」といえば世間では、「のろってやる」とか「うらんでやる」という、たいへん物騒な場合に用いる語のように考えられています。しかしまたこれと同時に、この呪という字は「呪文を唱える」、とか「呪禁(まじない)をする」とかいったように、「まじない」というふうにも解釈されているのです。毎日、新聞の社会記事に目を通しますと、呪禁をやって、とんでもない事をしでかす人の多いことに私どもは呆れるというよりも、むしろ悲しく思うことがあります。怪しげな呪禁や祈祷をして、助かる病人まで殺してみたり、医者の薬を遠ざけてへ ますます病気を悪くしてみたり、盛んに迷信や邪信を鼓吹して、愚夫愚婦を惑わしている、いいかげんな呪術師がありますが、ほんとうにこれは羊頭を掲げて狗肉を売るもので、あくまでそれは宗教の名において排撃せねばなりません。世間には「真言秘密の法」などと看板を掲げて、やたらに怪しげな修法をやっているものもありますが、真言の祈祷はそんな浅薄な迷信を煽るようなものでは、断じてないのです。それこそ神聖なる真言の教えを冒涜する、獅子身中の虫といわざるを得ないのです。しかし、いったいこの「呪」という字は、気のせいか、眼でみるとその恰好からしてあまり感じのよくない字です。世間では「呪」というと、ただちに迷信を聯想するほど、とかく敬遠されている語です。けれどもこれが一たぴ仏教の専門語とじて、用いられる時には、きわめて深遠な尊い意味をもってくるのです。めんどうなむずかしい学問的な詮索は別として、この「呪」という字は、梵語の曼怛羅(まんとら)という字を翻訳したものです。したがってそれは、真言または陀羅尼(だらに)などという語(ことば)と、同様な意味をもっているのです。いうまでもなく、真言とは、「まことの言葉」です。まことの言葉は、神聖にして、犯すべからざる語です。私たち凡夫の語には、うそいつわりが多いが、仏の言葉には、決してうそいつわりはありません。「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是眞(ゆいぶつぜしん)」と聖徳太子は仰せられたといいますが、全くその通りで、凡夫の世界はいつわりの多い世界です。私どもは平生よく「うそも方便だ」ナンテ平気でうそいつわりをいい、ヒドイのは「うそが、方便だ」と考えている人があります。が、凡夫の言葉は、「真言」ではなくて「虚言」です。この虚言すなわちうそ偽りについてこんな話があります。それはかの夢想国師の話です。国師は足利尊氏を発心せしめた有名な人ですが、この無窓国師は「長寿の秘訣」すなわち長生の方法について、こんな事をいっています。
「人は長生きせんと思えば、嘘をいうべかず。嘘は心をつかいて、少しの事にも心を労(ついや)せり。人は心気だに労せざれば、命ながき事、疑うぺからず」
といって、さらに、
「無病第一の利、知足第一の富、善友第一の親、涅槃第一の薬」
といっておりますが、真理は平凡だといわれるように、たしかにこれは真理のことばです。
まことに無窓国師のいわれる通り、仏の言葉には、嘘がないから、仏は長寿の人です。不死の人です。いわゆる無限の生命を保てる、無量寿であるわけです。次に陀羅尼という語ですが、これもまた梵語で、翻訳すれば「惣持(そうじ)」総べてを持つということで、あの鶴見の惣持寺の惣持です。で、陀羅尼とは、つまりあらゆる経典のエッセンスで、一字に無量の義を総(す)べ、一切の功徳をことごとく持っているという意味です。世間の売薬に「陀羅助」というにがい薬があります。これはたいへん古い薬で、私ども子供のころ、腹痛の時には、よくこの薬を服まされたものですが、これはくわしくはダラニスケ(陀羅尼助)で、この薬は万病によく利くという所から、梵語の陀羅尼を、そのままそっくり「薬の名」としたのだろうと思います。ただし、陀羅尼助の助が、どんな意味であるか、私にはわかりませんが、おそらくこの薬をのめば助かる、という意味でつけたものだろうと思います。要するに、厳密にいえばマントラとダラニとは、多少意味が異なっていますが、結局は、真言も陀羅尼も呪ということも、だいたい同じでありまして、神聖なる仏の言葉、その言葉の中には、実に無量の功徳が含まれているというのであります。仏教特に真言密教では、非常にこの呪を尊重していますが、いったい真言宗という宗旨は法身(ほとけ)の声(ことば)に基礎をおいているので、日本の密教のことを、真言宗というのです。弘法大師は、「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即身に法如を証す」(秘鍵(ひけん))といっておられますが、これによって呪の意味をご理解願いたいと存じます。ところで、この「呪」についてこんな話があります。それはちょっと聞くと、いかにも、陳腐な話ですが、味わってみるとなかなかふかい味のある話です。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)