その昔、中国に神秀(じんしゅう)という有名な坊さんがありました。彼は禅のさとりについて、こういっています。
「身は是れ菩提樹、心は明鏡台(めいけいだい)の如し。時々に勤めて払拭せよ。塵埃を惹かしむること勿れ」
私どもの身体は、ちょうど、一本の菩提(さとり)の樹(き)だ。心は清く澄んだ鏡である。しかし塵埃(あか)が溜るから、始終いつもそれを綺麗に掃除しておかねばならない、ということばは、たいへん意味ふかいものです。 かの愚者といわれた周利槃特が、「塵を払え、垢を除け」という詞を、単に外面的に皮相的に考えずして、内面的にもっと深く思索して、ついにさとりを開いたように、私どもは「化粧と修養」のほんとうの意味を、内面的に思索し、生活によって把即する必要があると存じます。
話はつい横道へそれましたが、かの「菩薩の疾(やまい)は大悲より発(おこ)る」という『維摩経』の文句は、非常に考えさせられることばだと思います。どなたかの歌に、

立ちならぶ仏の像(すがた)いま見ればみな苦しみに耐えしみすがた

というのがあります。ほんとうに味わうべき歌です。一切の衆生の苦しみを救いたいという抜苦のこころ、一切の衆生にほんとうの楽しみを与えたい、という与楽の気持、そうした慈悲の心の上に、仏や菩薩の絶えざる悩みはあるのです。だが、その悩みこそ、自分(おのれ)の身の病でもなければ、また自分一個の心の病でもありません。みんなそれは他人のための病です。苦しみです。つまり世のため、人のための悩みであり、愁(うれ)いであります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)