ただ頭で学ぶだけで、肚(はら)で覚(さと)らないからです。学者であって、覚者でないからです。とかく学者は学んだ智慧に囚われやすいのです。
いわゆる智惹負けする人が、学者の中には多いのです。しかし「覚者」は智慧に使われず、かえってその智慧を使います。智慧を材料として、それを自由に用いる人が覚者です。私どもは、少なくとも智慧に使われる人であってはなりません。智慧を使う人でなければならぬのです。智慧を人格の素材として、自由にこれを行使してこそ、学問する価値があるのです。学問中毒に罹っている今日の時代においては、この点よほどお互いに考えねばならぬと存じます。
たいへん前置きが長くなりましたが、これからお話しするところは、

「三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たもう」

という一節であります。さて、三世の諸仏ということですが、いったい仏教では三世というのは、いうまでもなく過去、現在、未来を指していったものですが、要するに、三世とは「無限の時間」ということなのです。ところで、この三世といつも並べて使用せられることばは、十万ということです。十万とは、東西南北の四方に、東南とか、東北などという四隅、 それに上と下とを加えて、十万というのです。つまり「無限の空間」ということです。 ひところ、よく世間で「八紘一宇」「世界一家」(世界じゅうの人たちが一家族のごとく相倚り相扶けてゆくこと)という言葉が用いられましたが、八紘というのは四方八方です。世界、宇宙という事です。十万と同じ意味で、無限の空間、涯(はて)しない世界ということです。要するに三世十万とは、「無限の時間」と「無限の空間」ということです。元来仏教は、キリスト教のごとく、神は一つだという一神論に立っている宗教ではなくて、無量無数の仏陀の存在を主張する、汎神論に立脚しているのです。したがって仏教ではこの無限の時間、無限の空間に亙って、いつ、いかなる場所にでも、数限りない無呈の仏がいられるというのですから、衆生が数が無限だとすると、仏の数もまた無限です。
衆生のある所必ず仏はいます、というのですから、衆生の数と、仏の数とはイクォールだといわねばなりません。すなわち「すでになった仏」「現になりつつある仏」「いまだ成らざる仏」というわけで、その数は全く無量です。
いったい日本において、古来神というのは、神はカミの義で、人の上にあるものが「神」です。すなわち人格のりっぱな人、勝れて尊い人が神さまであるわけです。またそのほか、ひとは万物の霊長で「日の友」だとか、人は地上において唯一の尊いものだから「ひとつ」の略であるとか、いろいろな解釈もありますが、古来男子をことごとく彦といいます。ひこは日の子供です。これに対して、女子は姫といいます。ひめとは日の女です。だから、人は男女いずれも神になり得る資格があるのです。すなわち神の子であるわけです。賢愚、善悪、美醜を問わず、いずれも神の子であるという自覚をもって敬愛することが大事です。ただし自分が神の子であること、神になるりっばな資格があることを、互いに反省し、自覚しなければ何もなりません。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)