あきらめの世界
いったい人間というものは妙なもので、口でこそりっぱにあきらめた、といっておっても、その実、なかなか心では容易にあきらめきれないものです。他人の事だと、「なんだ、もう過ぎたことじゃないか、スッパリ諦めてしまえ」だとか、「なんという君は諦めの悪い人間だ」ナンテ冷笑しますが、いざ自分の事となると、諦めたとは思っても、なかなか諦めきれないのです。竹を割ったようにスッ パリとは、どうしたって諦められないのです。「あきらめましたよ、どう諦めた、諦められぬとあきらめた」という俗謡がありますが、諦められぬと諦めた、というのが、あるいはほんとうの人情かも知れません。諦めたようで、諦められぬのが、また諦められぬようで、実はいつともなしに諦めているのが、私ども人間お互いの気持だと存じます。「散ればこそいとど桜はめでたけれ」と聞いて、なるほどもっともだと感じます。生まれた以上、死なねばならぬ、死は生によって来る、と聞けば、なるほど、全くその通りだ、と思います。「諸行無常」だの、会者定離」だのと聞けば、なるほどそれに違いないとうなずかれます。しかしです、そうは思いつつも、やはり一面には、「そうじゃけれども、そうじゃけれども」という感じが、どこからともなく湧いてくるのです。他人に向かっては誰しも、いかにも自分が、さとったような、あきらめたような口吻(くちぶり)で、裁きます、批判します。娘を亡くした母親を慰め顔に、「まあ極楽へ嫁にやったつもりで……」といったところで、母親にしてみれば、それこそ「おもやすめども、おもやすめども」です。
なかなか容易にはあきらめきれないのです。
なぜ自分の子供だけが、なにゆえにわが娘だけがという感じが先行して、「人間は死ぬ動物」だナンテ冷然とすましてはおれないのです。だが、それが人情です。愚痴といって非難されましょうが、そこが人間のやるせない心持です。わが娘を嫁にやる時、門出に流す母親の涙は嬉しい涙ではありましょうが、それはまた悲しみの涙でもあるのです。嬉しいはずだが、やはりそこには「愛する者と別れる」という、一種の悲しい世界もあるのです。あきらめたようで、その実あきらめられず、あきらめられぬようで、いつとはなしに人間は「忘却」ということによって、あきらめているのです。「人間は忘却する動物だ」とニイチェもいっていますが、面白いことばだと思います。全く人間というものは妙な存在です。その妙な存在である人間の集まっているこの社会も、また複雑怪奇で、そう簡単には解釈できないわけです。「人生は円の半径だ」といいますが、人生も社会も「割りきれぬ」ところにかえって妙味があるのかも知れません。割りきれぬものを、割りきったように考えるところに、人間の分別(はからい)があるのです。迷いがあるのです。とにかくあきらめたと思うのも、自分、あきらめられぬというのも、自分です。お互い人間は、なんといっても矛盾の存在です。
「人生は不満と退屈との間を動揺する時計の振子(ペンジュラム)」とショウペンハウエルはいっております。あるいはそうかも知れませぬ。求めて得られない時には、なんとなく不満を感じます。しかし幸いにその求めたものが得られても、そこには必ず退屈が生ずるのです。「歓楽極まって哀情多し」というか、「満足の悲哀」というか、とにかく不満の反対は退屈です。私どもの人生を、不満と退屈の間を動揺する、時計の振子に臀えた哲学者のことばの中には、味わうべき何ものかがあると存じます。どうみても、人間は幾多の矛盾を孕める動物です。矛盾の存在、それが人間でしょう。さてこれからお話ししようとする所は、四つの真理、すなわち「四諦」についてでありますが、『心経』の本文では、「苦、集、滅、道もなし」という所です。ところで、この四諦の「諦」という字ですが、これは「審」とか「明」などという文字と同一で、「明らかに見る」ことです。「審(つまび)らかに見る」ことです。だから「あきらめる」とは「諦観(たいかん)」することで、つまり、もののほんとうの相(すがた)を見ることで、すなわち真実を見きわめることです。したがって、釈尊があきらめた世界、ハッキリ人生を見きわめた世界を、説いたのがすなわち仏教です。しかもその仏教の根本は、 結局、この四諦、すなわち四つのあきらめ、すなわち四つの真理にあるのです。しからばその四つの真理とは何か、といえば、それは、「苦」と「集」と「滅」と「道」の四つで、これを四諦といっています。わかりやすくこれをいえば、「人生は苦なり」ということと、その苦はどこからくるかという、「その苦の原因」と、「その苦を解脱した世界」と、「その苦を除く方法」を教えたのが、すなわち「四諦」の真理です。で、「苦、集、滅、道もなし」という「心経」のこの一節は、このまえ「十二因縁」の下で、お話ししたごとく、空の立場からいえば、四諦の真理もないというのです。「一切皆空」の道理からいえば、迷と悟との因果を説いた、この四諦の法もないわけです。さてまず、「苦諦」ということから考えてゆきましょう。いったい「人生は苦だ」、とか、「うきよは苦悩(なやみ)の巷(ちまた)」だということは、たしかに真理です。世間でよく「四苦八苦の苦しみ」と申しますが、ほんとうに考えてみると、人生は四苦八苦どころか、さまざまの苦しみ、悩みがあるのです。
これについてこんな話があります。その昔 ペルシャ(現今のイラン)にゼミールという王さまがありました。年若きゼミール王は、「即位」の大典をあげるや、ただちに天下の学者に命じて、最も精密なる「人類の歴史」を編纂せしめたのです。王さまの命令に従って、多くの学者たちは、懸命に人類史の編纂にとりかかりました。、一年、二年はまたたく間に過ぎました。五年、十年は、夢のように過ぎました。二十年、三十年の長い年月を経ても、世界で最も「精密なる人類史」は容易にできません。四十年、五十年の長い長い時間を費やして、やっと書き上げた、その人類史の結論は、果たしてなんであったでしょうか。「人は生まれ、人は苦しみ、人は死す」それが人類史の結論だったのです。人は生まれ、人は死んでゆく。その生まれ落ちてから、死んでゆくまでの人間の一生、それは畢党苦しみの一生ではないでしょうか。「人は生まれ、人は苦しみ、人は死す」なんという深刻なことばでしょう。私は放送をするたびに、全国の未知の方々から、身の上相談の手紙を戴きます。それをら一々ていねいに拝見していますが、「こうも世の中には煩悶している、不幸な人たちが多いものか」ということを、いまさらながらしみじみ感ずることであります。小にしては個人、家庭、大にしては社会、国家、そこにはいろんな苦しみがあり、悩みがあります。苦悩がないというのはうそです。苦悩がないというのは、反省が足りないからです。苦悩があっても、煩悶があっても、それに気づかないでいるのです。いや悩みがあっても、その悩みにぶつかることを恐れているのです。つまりその悩みに目覚めないのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
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