さてこの因縁が、どんなに重要な意味をもっている語であるかは、すでに、しばしば反覆し説いてまいりましたが、要するに、縦から見ても横から見ても、内から見ても、外から見ても、「仏教の根本思想」は、所詮この「因縁」の二字につきるのです。もちつ、もたれつという「相対依存」の関係も、万物は移り変わるという「万物流転」の原理も、ことごとくみなこの「因縁」という母胎から生まれてくる真理であることは、すでに述べたとおりです。かかるがゆえに、人間の子釈尊が、仏となったことも、実は、この因縁の自覚にあったのです。しかもこの因縁の法を自覚した釈尊、仏となった釈尊が、その因縁の道理をば、自己の体験を通じて「教え」として説いたものが、すなわち仏教です。したがって仏教は、「仏陀の教え」とはいうものの、仏陀は自覚せる人間ですから、所詮、仏教は人間の教えです。神の宗教ではなくて、人間の宗教です。天上の宗教ではなくて、地上の宗教です。昔あるクリスチャンが、神さまは天上にいられると思って、ある日のこと、高い塔の上に登って、「神さまア、神さまア」と、大声で叫びました。すると不思議にも「オーイ」という神さまのお声が聞こえてきたものです。「さては天上に神さまがいられる」と思いつつ、彼はなおもよく耳をすましていると、翌に臨らんや、神の声は高い天上ではなくて、低い地上から聞こえてきたのです。しかも多くの人たちが群集し、軍配している中から神の声は聞こえてきたのです。
もちろんこれは―つの寓話でしかありません。 しかしです。神の声はあった、だが、その声は、高い天上にはなくて、低い地上にあった。しかも、多くの人々の雑沓している、その群集の中にあったということは、そこに、ふかき「何物か(エトワス)」を物語っていると存じます。キリストは「天国を地上」にといっています。少なくともほんとうの宗教は、神の宗教ではなくて、人間の宗教です。天上の宗教ではなくて、地上の宗教でなければなりません。まことに、宗教のアルファもオメガァも、始めも、終わりも、結局は人間です。「迷える人間」より「悟れる人間」へ、「眠れる人間」より「目覚めた人間へ」、そこに宗教の眼目があるのです。けだし「仏法遥(はるか)にあらず」です。「心中にして即ち近し」です。「真如外(ほか)に非ず」です。「身を捨て何処にか求めん」です。少なくとも、私ども人間の生活を無視して、どこに宗教がありましょうか。
「なにゆえに宗教が必要なのだ」という質問は、つまりなにゆえに、「われらは生きねばならぬか」という質問と同一です。
宗教の必要を認めない人は、人間として生きる権利を抛棄(ほうき)した人です。人間としての、尊き衿持は「生きる」ということを、考えるところにあるのです。しかも、一度でも「いかに生くべきか」ということを、真剣に考えたとき、それはもはやすでに「宗教の世界」にクッチしているのです。宗教に入っているのです。いや、宗教を離れては、どうしても「生きる」ということのほんとうの意味を、把ことはできないのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
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