.jpg

般若の哲学
これから申し上げるところは、「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう」という一段であります。漢字の数からいえば、たった二十五字しかありませぬが、この二十五字が、「心経」全体の中心になっておるのでありまして、二百六十余字の「心経」は、結局、この最初の二十五字をば、あるいは縦に、あるいは横に、内から外から、いろいろな方面から、説明したものにほかならぬのであります。

観音さまはどんな仏か
さてまず「観自在菩薩」と申しますのは、観世音すなわち観音さまのことです。観音さまは、自由自在に、世音すなわち世間の声、大衆の心の叫び、人間の心持を観察せられて、われわれの身の悶え、心の悩みを、救い給う仏でありますから、梵語のアバローキティシュバラという原語を訳して、玄芙三蔵は「観自在」といっているのであります。すなわち梵語の「アバローキタ」という字は観るという意味、「イーシュバラ」は、自由または自在という意味です。いったい私どもが、ものをみるという場合には、「見、観、視、察」という四つの見方があるときいています。ところで、その中で見という字は、肉眼でものをみること、観という字は、観音さまの観の字で、心眼でものをみることです。したがって観察するということは「心の眼でもってものをよくみる」ということでありまして、実はこの観察ということによって、私どもはもののほんとうの相を、ハッキリ知ることができるのです。その昔、宮本武蔵は「五輪書」という本のなかで「見の眼と観の眼」といっておりますが、武蔵によれば、この観の眼によってのみ、剣道の極意に達することができるのでありまして、彼は剣道において、観の眼、すなわち心の眼の修業が、いちばんたいせつだということを力説しております。しかし、それは単に剣道のみではありません。どの商売でも、どんな学問でも、何につけても、いちばんたいせつなのは、この「観の目」です。心の眼です。有名なカントが、「哲学する」といっているのも、つまりはこの観の目でみることです。
スピノーザが「永遠の相において」ものをみよというのもそれをいったものです。私どもは平生、なんの気なしに、見てみる、とか、聞いてみる、とかいうことばを使っておりますが、その見てみる、聞いてみるという、その「みる」というのは、つまり心眼のことです。心の眼でものをみることです。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」というのは、心の眼のないこと、心の耳をもたないことをいったのです。
ですからこの心眼を開けばこそ、私どもは、形のない形が見えるのです。心耳をすませばこそ、声なき声が聞こえるのです。俳聖芭蕉のいわゆる「見るところ花にあらずということなし、おもうところ句にあらざるなし」(吉野紀行)というのはまさしくこの心の眼を開いた世界です。心の耳をすまして聞いた世界です。つまり観察するという心持でもって、大自然に対した芸術の境地であります。ところで、いま観世音は実にこの心の眼を、大きく見開いて、一切を観察するとともに、また心の耳をすまして、一切の音声を聞かれた、いや、現に聞かれつつあるのです。
そして慈愛のみ手を一切の人々のまえにさしのべられつつあるのです。
さてこの観世音菩薩が、「深般若波羅蜜多を行ずる時」というのは、どんな意味であるかというに、すでに申し上げておいたごとく、それは、観音さまが甚深微妙なる般若の宗教を実践せられたということで、観世音は、単に心の眼を見開いて、般若の哲学を認識せられたのみでなく、進んで般若の宗教をば親しく実践されたのです。ところで、この「深」という文字ですが、この深という字については、昔からいろいろむずかしい解釈もありますが、要するに深は浅の反対で、深遠とか、深妙とかいう意味です。観音さまの体得せられた、般若の智慧の奥ふかいことを形容したことばだと考えればいいのです。したがってそれは私ども人間のもっているような、あさはかな智慧ではなく、もっともっと深遠な智慧、すなわち「一切は空なり」と照見した真理の智慧を指していったのです。それから、ここでお互いがよく注意しておかねばならぬ文字は、「般若波羅蜜多を行ずる」という、この「行」ということばです。これがたいへん重要なる意味をもっているのです。
あえてゲーテを待つまでもなく、いったい宗教の生命は「語るよりもむしろ歩むところにある」のです。いや宗教は、語るべきものではなくて、歩むべきものです。しかも、その歩むというのは、この「行」です。行ずるということが、歩むことであり、実践することなのです。いったい西洋の学問の目的は知るということが主眼ですが、東洋の学問の理想は行なうことが重点です。すなわち知るは行なうのはじめで、知ることは行なわんがためです。
しかも行なってみてはじめて、ほんとうの智慧ともなるのです。有名な「中庸」という本に「博(ひろ)く之を学び、審(つまび)らかに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を弁じ、篤く之を行う」という文句がありますが、けだしこれはよく学問そのものの目的、理想を表わしていると思います。ところで観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずるということは、つまり般若の智慧を完成されたということですが、それは要するに六度の行を実践されたことにほかならぬのです。
六度とは六波羅蜜のことで、布施(ほどこし)と持戒(いましめ)と忍辱(にんにく:しのび)と精進(はげみ)と禅定(おちつき)と般若(ちえ)でありますが、まえの五つは正しい実践であり、般若は正しい認識であります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)