◇易の未来予測は行動の指針である
さてこう考えてくると、未来というものは決定論としてあるのではなく、いつでも変化することが可能な状態として存在していることになります。運命論者のいう宿命とか運命などというものは、実際には存在しないのです。
「運命を決定論として考えるのはまちがいである。それは決定論と思い込んだ人の上にしかやってこない。運命は変えられるのだ。動かし得ない運命というものはあり得ない。あらかじめ定められているとか、予定されているとかいったものではないのである。易が指摘しているのは、われわれが神―――この宇宙を創造した偉大な存在―――と調和することによって、変えられるということを教えているのだ。もし動かし得ないものであるならば、われわれはそれを占う勇気があるだろうか。『易経』が数千年も人類の知恵として残り得たであろうか。
われわれは未来を変えることができる。幸福と健康、平和と豊かな人生を選択することができるのだ」
このマーフィー博士の言葉は、われわれが易に関わるときに心得ておくべ含重要なポイントを教えてくれています。易は決して定められた未来をのぞき見るものではない。自分がこれから設計する未来について、どのようなデザインをすればよいのか、そのヒントを与えてくれているも のなのです。
では、ノストラダムスのような人の予言はどう解釈すべきですか。ノストラダムスは数百年も先のことを見事に言い当てた。これはマーフィー博士のいう「運命は変えられる」というのと矛盾しませんか。
矛盾しません。個人的なことでも、たとえばこういうことがあります。酒ばかり飲んで慟こうとしない人に「そんなことをしていたら奥さんにも子供にも愛想をつかされて捨てられるよ」といったとします。これも―つの予言です。未来予測です。そういわれても、その人が態度を改めないでいたら、やがて予言通りになるかも知れません。この程度のことは誰にでもわかります。
しかし、ノストラダムスのやったことも本質はそう違いはないのです。彼は人類そのものの運命について、その生きていた時代にさまざまに考えたのです。そしてそれを詩に託した。驚異的な洞察力をもっていた彼は、人類のおろかさ、賢明さなどから推察してこうなるだろうと考えたことを、後の人類がそっくり演じてみせたのです。
アル中患者に「そのままでは廃人になるよ」といったら、その通りになったのと大差はありません。
そのノストラダムスの予言では、西暦1999年に人類にとって決定的な破局がくるとされています。あと十数年しか時間は残されていない。しかし、この運命もこれからの人類の思考と行動で変えることはできるのです。人間の連命には個人の運命と人類としての運命の二通りがある。個人の運命は一人ひとりの責任であり、人類の運命はその個人の責任のとり方の集積としてある。 核が人類を破滅させるかも知れないが、それを避ける知恵を慟かせ、行動するのも人間です。
だから、われわれは未来というものに絶望したり、未来にだけ期待をかけたりすることはまちがっている。いま現在に最良、最善の思考と行動をすることで、自分たちにとって好ましい未来を創造していかなければならないのです。
易はそのための指針としてこの上なく役に立つものなのです。
「マーフィの易い」J.マーフィ(昭和61年、産能大学出版部)