◇易は知のソフトウエアである
易を他力本願と思うのはまちがいです。誰でも何か重大な決断をするようなとき、あれこれ考え、他人の意見を聞いたり、それに関する知識や情報を得ようとする。易の活用も基本的にはこれと変わりません。
易の回答は、ときにカメラで撮ったように未来を写し出すことがありますが、それはあなたの潜在意識によって写し出されたものであり、易はあくまであなたの洛在意識をより鋭敏にさせるためのものです。
易に頼らなくても、人間はもともと予知、透視、念力などの特殊能力を持っています。ただそれは、ほとんどの場合は眠っているかサビついていて、ふつうの人にはなかなか発揮できません。しかし、火事場の馬鹿力というように、ある極限情況ではそれを発揮できる人もいます。
霊能者とよばれる人たちは、ふつうは発揮できない予知、透視能力を日常的に発揮できる人たちです。彼らはそれを職業とするくらいですから、いかに一般人にそうした能力が欠けているかがわかります。
また、自信家は人に頼ることを心外に思います。「自分のことは自分で決める」といいますが、それをどうやって決めているかといえば、やはり他人の意見を聞いている。何か新しい商売をやるとなれば、経験者の話には熱心に耳を傾ける。そこには聞くべき貴重な価値があると思っているからです。
易はそういった知恵の宝庫です。古代中国の人々は、重要な決断の場面で迷うとき、神に祈るのとおなじ態度で易に回答を求めました。『易経』は単独の著者によって成立したものではありません。驚くほど長い時間をかけて、孔子を含む三人の聖人によって完成されたものです。
いかに古く、いかに長い時間をかけてつくられたものであるかは、「易道は深し、人は三聖をかえ、世は三古をへたり」といわれていることからも想像がつくでしょう。最初の著者といわれる伏義(ふっき)は、いまから六千年前の王様です。 長い時間をかけて完成され、それがまた数千年にわたって伝えられてきたということは、ただごとではありません。
そこには、ほとんど天文学的数字の人間の経験と知恵が組み込まれている。それをたとえるとしたら、西暦がはじまってから二千年のあらゆる情報を高性能コンピュータにインブットしたのに匹敵する。より良く生きるノウハウの集大成、人間の英知を結集した知のソフトウエアなのです。
「マーフィの易い」J.マーフィ(昭和61年、産能大学出版部)