十五億ドルの和解 ── もう起きたこと 著作権の落とし穴
報道の見出しだけを追っていると、二〇二六年八月二日からEUで学習データの開示が義務づけられた、と読めてしまいます。順序が逆です。
生成AIの提供者が学習に用いた内容の要約を作成し公開する義務は、二〇二五年八月二日から既に法的義務でした。EU AI法第五十三条一項(d)。推奨ではなく、最初から義務です。その後の一年は、EU側に監督権限も執行権限もない調整期間だったにすぎません。
二〇二六年八月二日に始まったのは、その権限のほうです。AI Officeが文書の提出を求め、モデルを評価し、是正を命じ、市場から回収させ、制裁金を課せるようになった。上限は千五百万ユーロか世界売上高の三パーセントの、いずれか高いほう。
条文は「十分に詳細な要約」を求めています。字面だけ見れば自由記述に読めますが、そうではありません。二〇二五年七月二十四日、AI Officeが説明書と雛形を公表した時点で、この要約は欄を埋める標準書式になりました。
雛形が求めるのは、データの種別(文章・画像・音声など)、規模、言語、収集期間、用いた主要な公開データセットの識別子、ウェブクローラの仕様と目的、商用ライセンスデータの有無、そしてテキスト・データマイニングのオプトアウトをどう尊重したか。一度出せば終わりではなく、六か月ごと、あるいは重大な変更があればその都度、更新しなければなりません。
そしてこの雛形には、設計上の妥協が組み込まれています。営業秘密を守るため、「記述的な説明」を認めているのです。数量の代わりに文章を置く余地が、そこにあります。
執行権限が発動する直前、公開されていた要約を並べた比較があります。七つの提供者による十一の要約。結果は二つに割れました。
Google / Meta / Microsoft / OpenAI / Hugging Face ほかオープンソース勢
Anthropic / Mistral / xAI
ぼかした側の文言は、たとえば「公開情報とライセンス取得データの独自の組み合わせ」といった趣旨のものです。
公平のために付け加えておくと、この三社のモデルの多くは二〇二五年八月二日以前に公開された既存モデルで、遵守期限は二〇二七年まで猶予されています。違反ではありません。それでも、同じ時点で欄を埋めた者と文章を書いた者に分かれたという事実は残ります。
ここまでは、多くの記事が書いていることです。私が目を留めたのは、比較した研究者のより鋭い指摘のほうでした。
ほぼ全社が「公開データセット」に印を付けます。この分類はきわめて緩く、精査された研究用コーパスから無差別のウェブ収集まで、すべてを吸い込んでしまう。だから印が付いていること自体は、何も区別しません。
規模の欄も同じです。ほとんどが「十兆トークン超」と書く。そこから先、数字は誰も区別しなくなります。
意味のある差異は別のところにあります。利用者データを学習に使ったか(OpenAIとMetaは認め、オープンソース側は否定)、商用ライセンスとクローリングの実務、文章のみか多様式か。ところが要約を集めた登録簿はどこにもなく、各社のサイトに各社の形式で散らばっているだけで、外部の検証もない。自己申告のチェックボックスがあり、割合や数量はめったにない。
比較した研究者は、この状態を宝探しに喩えました。以前よりはましだが、比較可能性には遠く及ばない、と。
印象論で終わりかねなかったこの話に、数字を与えた研究があります。トリニティ・カレッジ・ダブリンとMozilla Foundationによる論文で、二〇二六年のACM FAccT会議で発表されました。ソフトウェア文書の品質管理の手法を応用し、第五十三条一項(d)の要約の質を測る評価枠組みを作ったものです。
この枠組みは、合否を実際に分けました。初期に公開された五件のうち、Microsoftの要約は基準に達せず、Hugging Faceのものは通過した。先ほど「欄を埋めた」側に分類されていた提供者です。
そして中核的な発見は、調達の実務に直接向かっています。GPAI行動規範に署名した企業は、全体としては署名していない企業より高い点数を得ました。しかし差はわずかで、しかもその優位はほぼ一つの領域から来ていた。導入者向けの文書です。
規制が実際に狙っている上流の開示 ── 学習データ、著作権関連のデータ利用、偏りの緩和、計算資源の消費 ── については、署名の有無で差がまったくつかなかった。
論文は明示的に結論しています。行動規範への署名のような表面的な遵守指標を、調達の判断において文書の深さの代理としてはならない、と。署名の徽章は「この事業者は導入手引きをうまく書く」ことは示しても、「この事業者は学習データの出所を実際に説明できる」ことは保証しない。
執行権限の発効二日前、OpenAIはEU AI法への対応について声明を出しました。安全性の枠組み、来歴の電子透かしに関する提携、欧州機関とのサイバーセキュリティ協力。詳細に書かれています。
ところが、著作権の章 ── 学習データの要約と、文書化された著作権遵守方針 ── が声明から丸ごと抜けていました。
要約そのものを提出していないという意味ではありません。提出はしています。目を引くのは、対外的に遵守を説明するまさにその場で、いちばん機微な欄が静かに飛ばされたことです。ある分析はこれを「善意の遵守と最小限の開示の境界線を綱渡りしている」と評し、OpenAI、Google、xAIを並べて挙げました。
この綱渡りは、自主的な署名の段階から兆候がありました。xAIは行動規範のうち安全保障の章にのみ署名し、透明性と著作権の章を明示的に除外した。Metaは署名そのものを拒否した。約束の入り口で、透明性と著作権という二つの機微な欄が、最初に滑り落ちている。
八月十六日、私は内閣府知的財産戦略推進事務局あてに提言書を提出しました。日本のプリンシプル・コード(仮称)の制定作業に向けたものです。その第三節の末尾に、こう書きました。
書いた時点では、日本の制度を念頭に置いた一般論のつもりでした。EUで現に何が起きているかを、私は知らなかった。
いま並べてみると、この一文はEUの現状をそのまま述べています。文章で書かせる限り、「十分に詳細」の基準は定まらない。詳しく書けば競争上の情報が出て、ぼかせば制裁のリスクが残る。そして、誠実に詳しく書いた事業者ほど不利になる。Microsoftが欄を埋めながら質の基準に達しなかったという事実は、この構造の別の現れ方でしょう。
八月二日以降、AI Officeが実際に制裁金を課したという確認された報道は、まだありません。始まったのは仕組みであって、罰ではない。
そして、この記事が参照した分析は、次のように結んでいます。
署名が代理指標にならないと結論された以上、欧州でAIを調達・導入する企業は、徽章ではなく実際のデータ来歴を求めるほかなくなる。「良い要約を書く法務の腕があるか」ではなく「要約の欄に入れる実際の記録があるか」を問うことになる。
その記録とは、出所の記録、ライセンス契約、クローラの履歴、オプトアウト照合の記録です。これらには共通する性質があります。
ここが、私にとっていちばん腑に落ちた指摘でした。
私が提案しているUCA(Universal Creative Attribution)という仕組みは、学習を始める前に、事業者が学習データの一覧に対する暗号的なコミットメントを公開することを要件にしています。何も開示せずに、後から嘘をつけなくなる。ルート値という固定長の値を一つ公開するだけで、中身は一切漏れません。
この要件を置いたのは技術的な理由からでしたが、いま思えば同じことを別の言い方で述べていたのだと思います。事前に置いた記録は、事後に作れない。だからこそ意味がある。
日本のプリンシプル・コードは、まだ確定していません。意見募集では権利者側と事業者側から鋭く対立する意見が寄せられ、修正の検討が続いています。
EUは一年先を歩き、そして文章で書かせる方式の限界を、実物で見せてくれています。欄を埋めても比較できない。署名は質を保証しない。いちばん機微な欄は静かに飛ばされる。
同じ道を後から歩く必要は、ないはずです。
機械可読な記録は、説明の巧拙に左右されません。書き手の法務能力ではなく、実際に記録を積み上げたかどうかだけが結果に出る。誠実な事業者が損をしない設計というのは、そういうものだと思います。
制度がまだ固まっていない今しか、設計そのものを提案できる時期はありません。
・Blankvoort, Pandit & Gahntz「Quality Assessment of Public Summary of Training Content for GPAI models」ACM FAccT 2026(arXiv:2603.13270)
・Kieran Maynard 氏による要約十一件の比較分析
・欧州委員会 AI Office「学習内容の公開要約に関する説明書および雛形」(2025年7月24日、C(2025) 8311 final)
・EU AI法 第53条、第101条
数値・事実関係は2026年8月時点のものです。制度は動いており、その後の変化は反映していません。

