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第五章・いのちの時代 連載第百十七話 一筋の涙

第五章・いのちの時代 連載第百十七話 一筋の涙

第 五 章 ・ い の ち の 時 代
連載第百十七話
一筋の涙

その施設に、自分より、若い、利用者が、いた。

四十代の、男性だった。脳梗塞で、倒れ、全身が、不随に、なっていた。これから、寝たきりの、まま、長い、年月を、生きていく。還暦近い、彼から、見れば、ずっと、若い。人生の、これからの、はずの、人だった。

けれど——その人は、明るかった。

底抜けに、明るかった。片言ながら、言葉を、操ることが、できた。だから、彼とは、ちゃんと、心が、通った。冗談を、言い合えた。その人は、よく、自慢した。若い頃、自分が、たいそうな、プレイボーイだった、と。女性に、もてた、武勇伝を、得意げに、語るのだ。

あるとき、彼は、冗談半分に、聞いてみた。

「あなたは、今、自分が、どんな、立場か、わかって、いるのですか」

残酷な、問いだったかもしれない。けれど、その人は、けろりと、して、答えた。

「恥ずかしながら」

表情は、暗くなかった。からりと、していた。寝たきりの、身で、なお、その人は、フィリピンの、美しい、介護士に、言い寄ることさえ、あったという。あの、底抜けに、明るい、フィリピンの、仲間が、笑って、言っていた。あの人は、本当に、明るい、と。

彼は、その姿に、教えられた。

この人は、この、動かない体で、これから、何十年も、生きていくのだ。その、果てしない、時間を、生き抜くために——たくましい、神経と、辛さを、よろこびに、変える、すべを、その人は、病の床で、自然と、身につけていた。明るさは、ただの、能天気では、なかった。生きるための、知恵であり、武器だった。嘆いて、暮らすことも、できた。けれど、その人は、笑うことを、選んでいた。

けれど——たった一度だけ。

彼は、その人の、涙を、見た。

いつも、笑っていた、その人の、目から。一筋の、涙が、流れた。何が、あったのか、細かいことは、覚えていない。ただ——いろいろと、悔しかったのだろう。動かない体。失われた、自由。これから、続く、長い、時間。明るく、笑ってみせる、その奥に、本当は、どれほどの、ものを、抱えていたか。その、一筋の、涙が、すべてを、語っていた。

彼は、その涙を、見たとき、思った。精いっぱいの、ことを、しよう、と。

この人のために、自分に、できることを、一つ残らず、しよう。涙を、見なかったふりは、しない。けれど、騒ぎ立ても、しない。ただ、その人の、傍で、できる限りの、ことを、する。それが、彼の、答えだった。

四十年後の今、振り返って、思う。

あの人は、彼に、生きることを、教えてくれた。全身が、動かなくても、人は、明るく、生きられる。辛さを、よろこびに、変えられる。それは、きれいごとでは、なかった。あの人が、その身で、証明していた、真実だった。そして——その明るさの、奥にあった、たった一度の、涙。あの涙もまた、彼に、教えた。人は、どんなに、明るく、振る舞っても、その奥に、抱えているものが、ある。だから、人には、優しく、あらねばならない。底抜けの、明るさと、一筋の、涙。その両方を、彼は、忘れない。

生かされて、今を、存在する。

全身不随の身で底抜けに明るく生きた、自分より若いあの人と、たった一度だけ見た、あの一筋の涙を、四十年後の今、自分は、確かに、覚えている。

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