第五章・いのちの時代 連載第百十話 沖縄の先輩
介護は、下手をすれば、人が、死ぬ、現場である。
大げさでは、ない。基本が、できていなければ、ひとつの、手順の、誤りが、利用者の、命を、奪いかねない。食事も、移乗も、入浴も、すべてが、危うさと、隣り合わせだった。だから、指導は、年齢に、関わりなく、厳格だった。五十六歳の、新人だろうと、容赦は、なかった。
基本は、徹底的に、仕込まれた。
新人には、指導する、先輩が、一人、つく。合格するまで、離れない。そして、小さな、手帳を、渡される。その日の、新人の、問題点を、先輩が、書き出し、修正すべき点を、記していく。できていないことが、一つずつ、文字になって、突きつけられる。逃げ場は、なかった。
彼に、ついたのは——二十七、八の、若い、女性の、先輩だった。沖縄の、出身だった。
その指導は、すさまじく、厳しかった。
親子ほども、年の離れた、新人に、彼女は、一歩も、引かなかった。できていないことは、できていない、と、はっきり、言う。手帳には、容赦なく、問題点が、並んだ。彼は、何度も、へこんだ。けれど、彼女の、厳しさには、嘘が、なかった。手を、抜けば、利用者が、危ない。その、一点を、彼女は、決して、譲らなかった。
なぜ、彼女が、あれほど、厳しかったのか。本土から来た、年上の、男に、何か、思うところが、あったのか。それは、わからない。今も、わからない。人の心の、奥を、推し量ることは、できない。ただ、彼女が、命の現場の、基本を、命がけで、教えようとしていた——その事実だけは、確かだった。
そして、不思議なことに。
あれから、長い、年月が、経った今、彼が、いちばん、よく、覚えているのは——その、沖縄の、若い先輩の、ことなのだ。
たくさんの、同僚が、いた。優しい人も、いた。けれど、いちばん、厳しかった、彼女の、顔と、声が、いちばん、鮮明に、残っている。手帳に、ペンを、走らせる、その横顔。容赦のない、その言葉。それらが、五十六歳の、彼の、介護の、土台を、作った。厳しさとは、ときに、最も、深い、親切なのだ。
四十年後の今、振り返って、思う。
あの、半年。あの、手帳。あの、沖縄の先輩の、厳しさが、なければ、彼は、命の現場に、立ち続けることは、できなかった。基本を、叩き込まれたからこそ、その後、何百人もの、いのちに、寄り添うことが、できた。人を、育てるとは、甘やかすことでは、ない。彼女は、それを、身をもって、教えてくれた。名前も、もう、思い出せない。それでも、その厳しさに、彼は、今も、頭を、下げている。
生かされて、今を、存在する。
親子ほど年の離れた新人を、一歩も引かず鍛えてくれた、あの沖縄の若い先輩の、厳しさと、その奥にあった命の現場への真剣さを、四十年後の今、自分は、確かに、覚えている。
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