第四章・覚醒の時代 連載第八十二話 三時四十六分
気が付くと、近くのラーメン屋で、四歳の息子と、向き合って、遅い昼を食べていた。
屋上で保本先生に呼ばれた、あの夕暮れから、その日まで、何があったのか、若い夫は、もう、覚えていない。妻に、最後に、何を言ったのか。看護婦さんと、何を話したのか。父と母に、何を伝えたのか。四歳の息子を、いつ、家に帰したのか。その朝、目が覚めたとき、何を思ったのか。息子の手を引いて、家を出たとき、どこへ行くつもりだったのか。ラーメン屋に入って、何を注文したのか。それも、覚えていない。
心理カウンセラーが催眠をかければ、何か、出てくるのかもしれない。けれども、自分の意識の中には、何も残っていない。臨戦状態の中で、心が、自分を守るために、記憶を、残さなかったのだろう。それを、四十年経った今、自分は、静かに、受け止めている。
ただ、覚えているのは、ラーメン屋で、四歳の息子と、向き合って、食べていたことだった。息子は、何も知らない。母が、病院で、削られていく命の中にいることを、四歳の子供は、まだ、理解していない。ただ、父と二人で、ラーメン屋で、昼ご飯を食べていた。それが、その日の、その時間の、すべてだった。
そこに、危篤の知らせが、届いた。
どうやって、届いたのか。当時、携帯電話は、持っていなかった。誰かが、ラーメン屋まで、走ってきてくれたのか。父か、母か、それとも、別の誰かか。店の電話に、知らせが入ったのか。それも、もう、覚えていない。四十年経った今、振り返って、考えてみても、わからない。けれども、確かに、知らせは、届いた。
息子の手を引いて、ラーメン屋を出た。徒歩で、病院へ、向かった。その道のりも、覚えていない。気が付くと、処置室の前にいた。
処置室は、おそらく、重篤の患者が収容される、ナース室に近い、少し大きな部屋だった。広さも、明るさも、はっきりとは覚えていない。ただ、その部屋に入ったとき、ベッドの上に、妻が、横たわっていた。ベッドの下には、おそらく、体を固定するための、固い板が、敷いてあった。
保本先生が、心臓マッサージをなさっていた。両手を組んで、心臓の上に両腕が垂直になるように、規則正しく、続けていらっしゃった。同時に、人工呼吸も、なさっていたはずだ。けれども、その記憶は、飛んでいる。先生は、お一人だった。お一人で、妻の命を、最後まで、引き止めようとしていらっしゃった。
部屋の中には、妻の父と母と妹、若い夫の父と母と息子、そして、若い夫自身が、いた。椅子はなかった。臨終の席で、椅子に座っている人が、どこにいるだろうか。皆、立っていた。四歳の息子も、何も分からずに、その場に、立っていた。
保本先生の、規則正しい動作が、続いていた。三十分ほど、だったと思う。時間は、推測である。けれども、確かに、長い、長い時間だった。
若い夫は、その光景を、立って、見ていた。
どこかの段階で、心の中で、つぶやいた、ような気がする。もう、十分です。もう、逝かせてあげてください。声に出したか、心の中だけだったか、それも、もう、覚えていない。声に出したとしても、保本先生には、届かなかったかもしれない。先生は、最後まで、手を尽くしていらっしゃった。
そして、保本先生が、手を、止めた。
回復しないことを、確認なさったのだろう。あるいは、そのまま、臨終を、告げられたのかもしれない。何と、おっしゃったのか、もう、覚えていない。ただ、マッサージが、終わった。それだけが、はっきりと、記憶に残っている。
三時四十六分だった。
時計を、誰が見ていたのか、それも覚えていない。けれども、後で、その時刻が、心に、刻まれた。一九八七年三月二十八日、土曜日、午後三時四十六分。妻、享年二十九。
その後、エンゼルケアが、行われた。看護婦さん方が、妻の体を、清めてくださった。
そして——婚約指輪が、なくなっていた。
いつ、なくなったのか。誰が、外したのか。処置の最中に、外れて、どこかに落ちたのか。エンゼルケアの最中に、外されたのか。それも、もう、わからない。気が付いたら、左手の薬指に、指輪が、なかった。それだけが、確かなことだった。
原宿の、彫金屋さんで、若い二人で、作らせた指輪だった。十八金の、太い、水道管のような形をしていた。表面に、フェニックスと、二人の頭文字、YY、が、彫られていた。婚約された頃の、若い二人が、選んだ意匠だった。あの日、彫金屋さんで、二つの頭文字を、並べた瞬間の、若い二人の顔を、若い夫は、覚えていた。
けれども、その指輪は、もう、どこにもなかった。これも、運命だったのかもしれない。フェニックスと、二人の頭文字を、妻が、自分の側に、連れて行ったのかもしれない。あるいは、その指輪は、今もどこかにあって、誰かの手の中で、別の物語を、生きているのかもしれない。もう、わからない。
亡骸を、引き取って、家に、連れて帰った。
家に、安置した。
そのとき、妻の顔が、笑顔に、なっていた。
臨終の床では、苦しそうな顔をしていた。三十分の心臓マッサージの間、保本先生の手の下で、妻の顔は、苦しそうに、歪んでいた。けれども、家に連れて帰って、畳の上に、安置したとき、その顔が、ふっと、緩んだ。安らかな、笑顔に、なっていた。
家に帰って、安心したのだろう。
若い夫は、その顔を、見ていた。四歳の息子も、その顔を、見ていた。母の、安らかな、笑顔を。
四十年が経って、振り返って、思う。
あの処置室の三十分の、苦しそうな顔と、家の畳の上の、笑顔。その二つの顔の間に、何が、あったのか。何かが、妻を、苦しみから、解き放った。それが、保本先生の最後の手の止まりだったのか、エンゼルケアの看護婦さん方の祈りだったのか、家までの道のりだったのか、家の畳の匂いだったのか。あるいは、そのすべてだったのか。
もう、わからない。
ただ、家に帰って、妻は、安心した。それは、確かだった。
三歳の息子と、二人で、その顔を、見ていた。
生かされて、今を、存在する。
あの三時四十六分の処置室と、家の畳の上の笑顔を、四十年経った今、自分は、確かに、覚えている。
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