第四章・覚醒の時代 連載第七十話 見落とされた影
見落とされた影
二度目の人間ドックの結果を受けて、自分たちは、ふだん通っていた病院に向かった。
何日後だったか、もう、はっきりとは思い出せない。当日のうちだったかもしれないし、数日が経った後だったかもしれない。ただ、長くは、待たなかった、と思う。妻の手術の経過観察を、毎月診てもらっていた、あの病院。担当の先生に、人間ドックの結果を、見ていただかなければならなかった。今度は、もちろん、二人で行った。「悪性」の電話の朝の後悔は、繰り返さない——その誓いは、自分の中で、もう、揺らがないものになっていた。
結果説明の部屋で、担当の先生は、人間ドックのレントゲン写真を、机の上に置かれた。
それと並べて、過去数か月の、その病院での胸部レントゲンの記録も、机の上に並べられた。先生の指が、人間ドックの写真の中の、影の場所を示された。それから、過去数か月の写真の同じ部分にも、その指が、移っていった。
先生の口から、お詫びの言葉が、出た、と思う。
その時、先生がどんな表情をされていたかは、もう、はっきりとは思い出せない。お詫びの具体的な言葉も、半世紀近く経った今、再現することはできない。ただ、先生が、ご自身の落ち度を、率直に認められたことだけは、覚えている。影は、数か月にわたって、見落とされていた——その事実だけが、机の上の、何枚かの白い紙の上に、はっきりと残っていた。
自分の中に、怒りは、湧かなかった。
湧かなかった、というよりは、怒りという感情が、立ち上がる隙間が、もう、自分の中に、残されていなかった。怒っている時間は、なかった。先生を責めても、机の上の影が、消えるわけではなかった。影が、消えないとすれば、これから、どうすればよいか——その問いだけが、自分の頭の中を、駆け巡っていた。怒りの代わりに、その問いが、自分の中で、ぐるぐると回っていた。
妻も、隣の席で、姿勢を崩さず、先生のお話を聞いていた。
最初の人間ドックの時の妻と、同じ姿勢だった。最初の手術の前の、第二子を還した時の、あの泣きじゃくった姿は、その時の妻には、もうなかった。母として、何かを覚悟された方の、静かな姿勢が、そこにあった。自分は、妻の隣で、自分の中の問いを、口に出さずに、ただ繰り返していた。どうすればよいか、どうすればよいか、どうすればよいか——その問いの繰り返しだけが、自分の中の、唯一の働きだった。
先生は、別の大きな病院を、推薦された。
胸部外科の腕の立つ医師がいらっしゃる病院だった。肺の腫瘍の摘出術は、ご自身では難しい——というような意味のことを、先生は、おっしゃったかもしれない。その細部は、もう、覚えていない。ただ、別の大きな病院の名前を、紹介していただいた。その場で、自分は、その推薦をお受けすることにした。即決だった。迷っている時間は、なかった。妻も、頷いていた。先生に礼を述べて、結果説明の部屋を出た。
家に帰ってから、自分の暮らしは、二つの顔を持つようになった。
妻の前では、いつも、笑顔で対応するようにしていた。健慈の前でも、同じだった。家の中の風景は、表面上、それまでと変わらないように見せた。夕食のちゃぶ台、お風呂、寝かしつけ——どれも、ふだんと同じように振る舞った。それは、若い夫としての、せめてもの仕事だった、と思う。妻に、不安な思いをさせてはいけない。妻に、家の中で気を遣わせては、申し訳ない——そういう気持ちが、自分の中の、ひとつの規律のようなものになっていた。
それは、演技だった。
心の中は、笑顔とは、ほど遠かった。会社で読み漁ってきた書物の中身、医師の言葉、レントゲン写真の影、これからの治療——それらが、頭の中で、絶えず、ぐるぐると回っていた。それでも、家の中では、若い夫は、笑顔を作っていた。今、半世紀近く経って振り返ると、その演技は、たぶん、へたくそだったと思う。妻は、たぶん、それを、見抜いていた。それでも、妻は、その笑顔に、応えるかたちで、自分にも笑顔を返してくれていた。妻の笑顔も、もしかしたら、演技だったのかもしれない。二人とも、お互いの演技を、たぶん、半分は分かっていながら、それでも、お互いに、その演技を、続けていた。
家に入る前に、自分は、いつも、一度、息を整えていた。
会社からの帰り道、家に近づくと、頭の中に詰まっていた書物の中身を、一度、置いてくることが、必要だった。「ただいま」と声を出す前に、玄関の前で、深く呼吸を、ひとつする。それから、家の中に入った。健慈の笑い声と、台所からの匂いと、妻の「お帰りなさい」——その世界に、もう一つの自分として、入っていく。それが、その時期の、自分の毎日の入口だった。
会社では、自分は、もう一つの顔をしていた。
中近東部の仕事は、淡々とこなしていた。それでも、心の本当の置き場所は、もう、会社の机の上には、なかった。仕事には、身が入る余地が、ほとんど、なかった、と思う。当時の同僚の方々の目には、自分が、どう映っていたか——分からない。少なくとも、上司や同僚に、家の事情の細部を、こと細かにお話しすることは、しなかった。妻が、術後の経過観察中である——それくらいの説明は、必要に応じて、していた。ただ、肺への転移のことまでは、自分の口からは、職場では、ほとんど、口にしなかった。それは、自分の中の、もう一つの規律だった。
昼休みになると、自分は、いつも、書店に向かった。
本社の近くに、いくつかの大きな書店があった。お弁当を手早く済ませて、書店に駆け込んだ。医学書のコーナー、健康法のコーナー、雑誌の棚——片端から、目を通した。当時、自分は、がんに対する知識を、ほとんど持っていなかった。何が正しい治療なのか、何が怪しい民間療法なのか、書店の本の中から、自分一人で、判断するしかなかった。ノートを持ち歩いていた。気になる治療法や、書物の名前を、その場で書き取った。昼休みの限られた時間が、自分にとっての、活路を探す時間だった。
妻の死地からの解放——それだけが、自分の頭の中の、唯一の目的だった。
死地、という言葉を、若い自分は、その時期、頭の中で、何度も、繰り返した。肺への転移を告げられた以上、妻は、もう、死地に立っている。そこから、いかにして、活路を見出すか。それが、書店に通う自分の、毎日の問いだった。書物の中で、いくつもの可能性が、立ち上がっていた。胸部外科手術の最新の動向、当時、臨床試験段階にあった免疫療法、漢方、食事による体質改善、温熱療法、転地による空気と環境の変化——いくつもの道が、本の中の知識として、自分の前に、開かれていた。それを、ひとつひとつ、読み込んでいった。
夜、家に帰って、健慈と妻を寝かしつけたあと、自分は、もう一度、ノートを開いた。
昼休みに書き取った、いくつもの治療法。その一つ一つを、自分の頭の中で、整理していった。これは、信頼できるか。これは、どこの先生のもとで、受けられるのか。費用は、時間は、家族の生活との両立は——夜の食卓の上で、ノートと、本と、自分の鉛筆だけが、静かに動いていた。妻は、隣の部屋で、もう、眠っていた。健慈の寝息が、廊下の向こうから、ときどき聞こえていた。
乳がんは、当時、世間一般では、治癒しやすいとされていた。
早期発見であれば、十分に治せる——そういう風評が、当時、広く流布していた。書店の本の中にも、その種の楽観的な記述が、いくつもあった。それを読みながら、自分は、半分は、ほっとし、半分は、信じきれずにいた。ふだんの病院で、数か月にわたって見落とされていた影が、机の上に、はっきりと残っていた。あの影は、楽観的な風評の側ではなく、別の側にあった。実は、乳がんの五年生存率、十年生存率が、極めて厳しいものであることを、自分が、はっきりと知るのは、ずっと後のことだった。当時の自分は、楽観と悲観のあいだを、毎日、行ったり来たりしていた。
怒りは、湧かなかった。悲しみは、まだ、深いところに沈んでいた。
怒りも、悲しみも、その時期の自分には、奢侈品だった、と思う。怒っている時間も、悲しんでいる時間も、若い夫には、なかった。あったのは、ただ、活路を探す時間だけだった。書店、ノート、夜の食卓、玄関先の深呼吸——それらが、自分の毎日の輪郭を、作っていた。妻は、家の中で、いつも通りに振る舞っていた。たぶん、自分の演技を、見抜きながら。健慈は、何も知らずに、笑っていた。
いかに死地に活路を見出すか——その問いだけが、自分の中で、回り続けていた。
第七十話の影は、見落とされていた影だった。見落とされていた影は、白い紙の上に、はっきりとした輪郭で、もう、立ち上がっていた。若い夫の中には、怒りはなかった。ただ、活路を探す覚悟だけが、書店の本のページの上に、ノートの紙の上に、玄関先の深呼吸の中に、一つずつ、形を取り始めていた。
覚醒は、まだ、訪れていなかった。
しかし、覚醒への扉が、ここから、一つずつ、開かれ始めていた。書物の中の、いくつもの治療法。家の中の、いくつもの会話。会社の昼休みの、いくつもの書店通い——その日々の一つ一つが、後の長い道のりの、最初の一歩だった。若い夫の演技は、たぶん、へたくそだった。それでも、その演技を支えていた覚悟は、本物だった。
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