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第三章・世界の時代 至誠の覚醒 連載第六十話「仕様変更を頼む側」

第三章・世界の時代 至誠の覚醒 連載第六十話「仕様変更を頼む側」

第 三 章 ・ 世 界 の 時 代
第 六 十 話

仕様変更を頼む側

― 仕 様 書 の カ ラ ム は 、 砂 漠 に 続 い て い た ―

湾岸班の彼女が、自分の机の前に立っていた。

英文学を学んで大学を出て、社会人になってまだ二年目という、若い女性である。配属の理由は、単純にひとつだった。英語が堪能だから——それだけである。中近東の販売店との英文のコレポンを毎日捌くには、英語の力は欠かせない。会社は、その力をもって、彼女を湾岸班のバーレーン担当の席に座らせた。湾岸の小さな島国の販売店との折衝が、彼女の仕事になった。

その彼女が、青ざめた顔で、自分のところに相談に来た。

手にしているのは、一枚の仕様書のコピーだった。先月発信した、バーレーン向けの注文の仕様書である。発信から少し時間が経って、工場の生産直前のチェックの中で、ある一行のカラムにずれがあることが、いま発覚したらしい。中近東向けの仕様で出すべき箇所に、通常地域向けの指示が入っていた。彼女の指は、その一行を指していた。

水温計の仕様の、一行だった。

◇ ◇ ◇

中近東向けの水温計は、一般地域向けと、少しだけ仕様が違っていた。

違いの趣旨は、現地の事情から来ていた。中近東の砂漠の夏は、五十度近い熱になる。その中で車両のラジエーターは、常に高い水温で動き続ける。一般地域向けの水温計をそのまま装着すると、走行中、水温計の針が常に高めの位置で揺れる。針が少しでも上がると、現地の運転者は不安になる。砂漠で車が止まれば、命に関わる——その緊張が、彼らの神経の中に、いつもある。

だから、水温計の感度を、少しだけ下げてあった。

針の動きを、わずかに鈍らせる。実際の水温の変化に対して、針が反応するまでに、少しの遅れを置く。これによって、走行中の針の位置は、現地の運転者の感覚に合った安定した範囲に収まる。同じエンジンの、同じラジエーターの上で、計器の振る舞いだけを少し変える——そういう、現地仕様だった。

仕様書の上では、それは一行のカラムの中の、一つの記号で指示する。

通常地域向けの記号と、中近東向けの記号と、見た目はほとんど変わらない。記号の末尾に、わずかな違いがあるだけである。慣れた目で見ても、紙の上で見落とすことのある違いだった。慣れていない目で見れば、見分けるのは、もっと難しい。

湾岸班の彼女は、まだ、慣れていなかった。

◇ ◇ ◇

彼女が悪いのではないと、自分は、すぐに思った。

英文学を学んできた人に、車両の仕様書のカラムの一つ一つを、半年や一年で完全に読み取れというほうが、無理な話である。仕様書の記号の体系は、車を作っている側の言葉である。車を作ったことのない人間に、その言葉が一目で読めるはずがない。彼女の中には、その言葉がまだ十分に育っていなかった。それは、彼女の能力の問題ではない。会社が、彼女をその席に座らせた組み立て方の問題だった。

湾岸班のまとめ役も、同じ構造の中にいた。

彼は、アラビア語が堪能だった。中近東の販売店との交渉では、アラビア語の力が大きな武器になる。会社は、その力をもって、彼を湾岸班のまとめ役の席に座らせた。ただ、彼にも、工場の経験はなかった。仕様書の記号の体系は、彼にとっても、よくわからない言葉のままだった。彼に「カラムの最終確認をお願いします」と言っても、彼の目で見抜ける範囲には、限界があった。

湾岸班の机は、語学の力で支えられていた。

そして、車両の知識のところで、空白を抱えていた。彼女のミスは、そのまま、湾岸班の机の構造から自然と発生する種類のミスだった。一人の若い女性のうっかりではない。フロアの組み立て方が、必然的に生む、構造的な見落としだった。それを、こちらの中近東担当——工場経験のあるはずの自分のところでも、発信前に拾い切れなかった。複数の机を経て、それでも、この一行のカラムは、ずれたまま、工場まで流れた。

気づいたのは、工場の現場の人だった。

◇ ◇ ◇

彼女に、心配しなくていいと、自分は短く言った。

「これは、こちらから工場に電話を入れて、仕様変更でお願いする」——そう伝えた。彼女の顔から、少しだけ、青さが引いていった。彼女は、自分の机に戻り、それでも、しばらくはミスをした一行のことを、頭の中から離せないでいたと思う。あの年頃で、自分の手が出した一枚の紙の中の、一つのカラムのずれが、これほど大きな波を立てるという経験は、たぶん初めてだった。

受話器を、自分の机の上で持ち上げた。

電話帳の中から、村山工場の生産計画課の番号を探し当てて、ダイヤルを回した。回しながら、自分の中で、ある記憶が、ふっと立ち上がってきていた。村山時代に、本社の中近東部から電話を受けたあの朝の、自分の手の動きである。

「中近東部のかわいこちゃんが、仕様間違えっちゃったんだ」

受話器の向こうで、池田さんが、軽い声で笑っていた。あの軽い口調が、いま、自分の耳の奥に蘇っている。あの時、村山の机で電話を受けた自分は、戸惑い、忙しさに揉まれ、それでも最後には、何とか引き受けようとしていた。班長に相談し、ラインの変更可能性を確認し、生産技術と摺り合わせた。あの一連の動きを、自分は、村山の朝の空気の中で、確かに身につけた。

その電話を、いま、自分がかける側に回っている。

◇ ◇ ◇

呼び出し音が、何度か鳴った。

受話器の向こうで、誰かが受話器を取る音がした。「はい、生産計画課」——若い、聞いたことのない声だった。自分が異動して二年が経っている。村山の机の主は、一つ二つ、入れ替わっていた。電話に出たのは、自分のあとに、生産計画課に配属になった若い後輩だった。彼は、こちらの名乗りを聞きながら、机の上の紙に、何かをメモしているらしかった。

「中近東向けの、バーレーン仕様の件で、お願いしたい変更があります」

自分の口から出た言葉は、固かった。池田さんの軽さとは、まったく違う口調だった。軽くは言えなかった。受話器の向こうで、いま、若い後輩が、注文の山の中から、こちらの言うバーレーン仕様の一件を探そうとしている。彼の机の上にも、村山の朝の音の層がある。紙のすれる音、班長たちの低い相談の声、工場のラインから流れてくる遠い金属の音——あの音の層の中で、彼は、こちらの電話を受けている。

水温計の仕様の、カラムのずれを、自分は説明した。

通常地域向けの指示が入っているが、これを中近東向けの仕様に変更してほしい——その一点を、淡々と伝えた。後輩は、こちらの説明を、丁寧に復唱しながらメモを取っていた。「水温計の感度を、低い方の仕様に切り替えるということで、よろしいでしょうか」——彼は、確認の問いを返してきた。返ってきたその一言の中に、彼が、車両の仕様の言葉を、もうすでに身につけ始めていることが、はっきりと聞こえた。

二年前の自分が、村山の机で受話器を握っていた朝が、彼の机の上に、いま、引き継がれていた。

◇ ◇ ◇

後輩は、班長に相談しますと言って、一度、受話器を保留にした。

保留の音が、こちらの耳の中で続いた。あの保留の数十秒のあいだに、村山の生産計画課の机の周りで、班長への相談、ラインの確認、生産技術との摺り合わせが、急いで動いていることが、自分には目に見えていた。電話の向こうで動いている空気を、自分の身体が知っている。あの空気の中で、自分も、二年前、池田さんからの電話の対応を組み立てていた。

保留が解けて、後輩の声が、もう一度、受話器の向こうで響いた。

「変更で対応します。生産には、間に合います」——彼は、はっきりと、そう言った。「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」——自分は、低く頭を下げて、そう答えた。電話の向こうの後輩には、頭を下げるところは見えない。しかし、自分の体は、自然と頭を下げていた。受話器を握ったまま、机に向かって、深く一度、頭を下げた。

受話器を置いた。

机の上の音が、ふっと、戻ってきた。フロアの電話のベル、女性たちの声、コレポンの英文の打鍵、テレックスの遠い音——本社の音の層が、いつものように、自分の周りを流れていた。湾岸班の彼女のほうを見ると、彼女は、まだ自分の机で、紙の束に向かっていた。こちらに向かって、視線が一度上がり、頷くように軽く礼をした。それで、ひとつの小さな波は、おさまった。

◇ ◇ ◇

その日の夕方、机に向かいながら、ぼんやり考えていた。

湾岸班の彼女が、車両のことをわからないのは、当たり前である。英文学の人なのだから。アラビア語のまとめ役が、仕様書を読み切れないのも、当たり前である。アラビア語の人なのだから。では、その仕様書を受け取る側——バーレーンの現地販売店——は、どうなのだろうか。彼らは、車のことを、わかった上で売っているのだろうか。

その答えを、自分が骨で知るのは、もう少し後のことになる。

後年、現地に出張した時のことだった。バーレーンか、あるいは別の湾岸の小国だったか——記憶の中で、土地の名前は少しぼやけている。砂漠の夜、現地の販売店の主に、月見に招かれた。テントの中に通され、客人として最高の礼である羊の丸焼きを、共に膝でつついた。彼は、商人だった。先祖代々のベドウィンの血を引く、商売の人である。物を作ったことのない、商売だけの民族の長である。

食事のあいだ、彼はこう言った。

「石油がなくなったら——」彼は、テントの外の、広大な夜の砂漠を、ゆっくりと指さした。「あそこに戻るだけだよ」——そう、淡々と言った。砂漠を掘ったら、たまたま、お金が出てきた。それだけで、一夜のうちに、石油の上に乗る強大な王国が出現した。彼らは、その富の上に座っている。しかし、富がなくなれば、また、もとの砂漠に戻る——その覚悟を、彼は、自分の言葉として持っていた。

もうひとつ、思い出す場面がある。

ある現地販売店の営業部長は、アフリカから出稼ぎに来ていた人だった。新車の試乗のときに、自分は彼に、エンジンブレーキを使ってください、と指示した。彼は、こちらの顔を、不思議そうに見た。「エンジンブレーキは、どこについているのか」——彼は、そう尋ねた。冗談ではなく、本気で尋ねていた。彼にとって、車は、買って売るものだった。仕組みを知るものではなかった。

本社の中近東部の机から、現地販売店の営業の机まで、車を知らないで売っていた——というのは、少し言い過ぎだろうか。

少し言い過ぎだとしても、それくらいの感じであった。物を作ったことのない人たちのところに、突然、巨大な富が落ちてきた。教育や、現場の実態が追いつかないままに、車という機械が、彼らの市場の上を流れていた。それを、語学の力で支える本社のフロアと、商売の力で支える現地のフロアが、どうにか繋いでいた。仕様書のカラム一つの記号は、その繋ぎ目の上に、危うく乗っていた。

◆ ◆ ◆

湾岸班の彼女のミスは、彼女のミスではなかった。

本社のフロアと、砂漠の販売店と、その二つの世界の出会い方そのものが生んだ、構造的な揺らぎの一部だった。一行のカラムの記号のずれは、英文学の人と、アラビア語の人と、ベドウィンの商人と、アフリカ出稼ぎの営業部長と、灼熱の砂漠を走る一台の車と——それらの全部を、一枚の薄い紙の上で、無理に繋ごうとしていた、その無理の現れだった。

自分は、その日、電話を一本かけた。

受話器の向こうで、二年前の自分の場所に座っていた若い後輩が、丁寧に、変更を引き受けてくれた。電話のこちら側と、電話の向こう側と——自分は、両側に立ったことになる。両側に立ってみて、はじめて、仕事というものの輪郭が、自分の中で、ひとつ、深く結ばれた気がした。電話を受ける側の事情も、電話をかける側の事情も、両方とも、自分の身体が骨で知っている——その状態に、ようやく自分は到達していた。

仕様書のカラム一つの記号が、灼熱の砂漠の上で、誰かの命の重みを背負っている。

あの構造を骨で理解するまでに、自分には、もう少しの時間が必要だった。月見のテントの夜と、エンジンブレーキの位置を尋ねた営業部長の顔と——それらは、まだ、未来の地平の向こう側にあった。本社の机の上で、若い自分は、その日、ただ受話器を一度握り、頭を一度下げて、それで自分の一日を閉じた。

世界は、机の上の一行のカラムを通して、すでに自分のところまで届いていた。

(つづく) R080506
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