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第三章・世界の時代連載第五十八話 電卓の王様

第三章・世界の時代連載第五十八話 電卓の王様

第 三 章 ・ 世 界 の 時 代

第 五 十 八 話

電卓の王様

― 二 万 の マ ス を 手 で 合 わ せ る 人 ―

毎月の生産計画は、まだ可愛いものだった。

マトリックスのマスは百数十、相手は中近東の十数か国、車種は十数種類。これは、毎日マスを埋めて慣れていれば、月末に何とかなるサイズである。本当に大変だったのは、年度計画の策定だった。

年度計画——年に一度、世界中の輸出計画を、全部一枚の絵にまとめる作業である。

当時、日産自動車の年間輸出台数は、二百万台、あるいは二百五十万台に近づいていたと記憶している。北米、中南米、欧州、アフリカ、中近東、アジア——E03の生産手配班の六担当が、それぞれ自分の担当地域の翌年分のマトリックスを組む。国の総数は、各地域を合わせると、二百を超えていた。車種は、乗用車から商用車、フォークリフトの各仕様まで、合わせて百近くあった。

マスの総数は、二万を超えていた。

縦に二百か国、横に百車種。掛け合わせれば二万のマス。それを各国担当ごとに地域別の集計表として組み上げ、最後にE03全体の集計表として、世界全体を一枚の表にまとめ上げる。年度計画のたびに、フロアの机の上には、紙のマトリックスが、何重にも積み重ねられていった。

そして、これを、手計算で組んでいたのである。

◇ ◇ ◇

今、これを書いていると、自分でも信じられない気がする。

二万のマスを、人間の指で、電卓を叩いて、足し算をしていた。一マス一マスの数字を国別に縦集計し、車種別に横集計し、全体を総集計する。電卓を叩く音が、フロアのあちこちから、ずっと響いていた。受話器の音、女性陣の声、コレポンの英文の打鍵音——いつものフロアの音の層に、年度計画の時期だけは、電卓のキーが立てる細かい音が、波のように加わっていた。

年度計画策定の月になると、フロア全体が泊まりがけの様相を呈した。

徹夜が、何日も続く。家に帰る時間がない。机の脇には、コンビニ袋に入った夜食の包みと、空のコーヒー缶が並んでいた。仮眠は、机に突っ伏してとる。三時間、二時間、一時間——眠る時間が日に日に短くなっていく。それでも、紙の上のマトリックスは、まだ完成していない。

問題は、縦と横の数字が、合わないことだった。

国別の縦集計と、車種別の横集計とが、最後の総計のところで、ぴたりと一致しない。本来、同じ数字に二通りの集計のしかたで辿り着くはずなのに、辿り着いた先の数字が、わずかに違っている。一台、二台、十台、百台——ずれの大きさは、その時々によって違った。しかし、ずれていることだけは、どうしても消えない。

どこかのマスに、書き間違いか、計算違いか、転記違いがある。

それを、二万のマスの中から、見つけ出さなければならない。一マスずつ電卓で計算し直していけば、いずれ見つかる。しかし、それには、また何日もかかる。徹夜の連続のあいだに、若い担当の頭は、どんどん鈍くなっていた。鈍った頭で、二万のマスを再点検する——これが、若手にとっての年度計画の最大の地獄だった。

◇ ◇ ◇

そこに、係長が立つのである。

生産手配班の係長——年度計画の現場を仕切る人だった。年齢は、自分よりだいぶ上。背格好は普通、口数は少なめ、人当たりは柔らかい。普段の月次計画の時期には、それほど目立つ人ではなかった。だが、年度計画の修羅場が始まると、その係長が、別の人のように見えてくる。

係長は、各国担当の机を、一つずつ回って歩く。

それぞれの担当が組み上げた地域別マトリックスを、一枚一枚、目を通していく。北米の表、中南米の表、欧州の表、アフリカの表、中近東の表、アジアの表——六枚の地域別の表を、係長は、見ているあいだに、頭の中に入れていくのである。それぞれの表の、どの国の、どの車種のマスに、どんな数字が入っているか——それが、係長の頭の中で、立体的な絵として、組み上げられていく。

そして、最終の世界全体の集計表を見る。

縦と横の数字が合わない、という報告を受けて、係長は、その世界集計表を黙って眺める。眺めるだけである。電卓も叩かない。指でなぞるわけでもない。ただ、紙の上の数字を、ゆっくり、ゆっくり、目で追っていく。フロアの空気が、その数分のあいだだけ、ぴたりと止まる。係長の口から、一言が出るのを、自分たち若手は、息を詰めて待っていた。

「ここの、欧州のこの車種、たぶん十台少ない」

係長は、そう言って、紙の上の特定のマスを指で押さえる。あるいは、「中近東のこの国の、この車種の集計のところ、転記が一桁違ってないか」——そういう指摘が、淡々と出てくる。慌てて、その箇所を電卓で計算し直してみると、本当に、係長の言うとおりの違いが、そのマスに潜んでいる。一発である。二万のマスの中から、係長は、ただ表を眺めるだけで、ずれの場所を当てる。

その瞬間、フロアの若手たちのあいだで、どよめきが起こる。

◇ ◇ ◇

名人芸、としか言いようがなかった。

なぜ、係長にあのことができたのか、自分には今もわからない。たぶん、長年の年度計画の蓄積が、係長の頭の中に、各国・各車種の数字の「あるべき姿」のようなものを、染み込ませていたのだろう。中近東の某国の、ある車種の翌年の数字は、だいたいこのくらいの範囲に収まる——その肌感覚が、何百か国、何百車種について、係長の頭の中にすべて入っていた。だから、表の中の一マスの数字が、その肌感覚から外れていれば、「何かおかしい」と、すぐに気がつくのである。

頭の中に、巨大なデータベースを抱えていた、と言ってもよい。

いまの言い方をすれば、そういうことになる。当時はまだ、データベースという言葉も、検索という言葉も、フロアの誰の口からも出ていなかった。それでも、係長の頭の中には、そういう種類の構造が、長年の経験の中で、自然に組み上がっていた。生産手配班の係長というポストは、そういう人間がいなければ、回らないポストだった。

係長がいないと、年度計画は、まず終わらなかった。

何日も会社に泊まり、徹夜を重ね、それでも合わない数字を追いかけ続ける——そういう日が、永遠に続いてしまう。係長の一言で、ずれの場所が一発で当たる。そこを修正すれば、世界集計表はぴたりと締まる。年度計画は、係長の名人芸が一発入ることで、ようやく月内に仕上がる。彼の存在が、いかに偉大であったかを、若い自分は、毎年の年度計画のたびに、骨で感じていた。

◇ ◇ ◇

振り返って、今の時代と比べてみたい。

いまでは、エクセルのようなマトリックスを各国担当に配布して、それぞれが必要車両の台数を入力すれば、それを串刺しで集計できる。世界集計表は、ボタン一つで自動計算される。縦と横が合わない、ということは、原則として、起こらない。あるいは、もっと進んで、AIが、全世界の販売実績と需要予測から、自動的に最適な生産計画を提示する時代になっている。

あの当時は、夢のような話だった。

表計算という言葉自体は、すでに存在していた。フロアの隅のオフコンの上で、ビジカルクが動いていた。しかし、ビジカルクには、二万のマスを扱う力はなかった。パラメーターの設定が大袈裟で、世界集計表の規模を扱おうとすれば、機械の能力を遥かに超えていた。やはり、結局は、人間の手と電卓のほうが速かった——あの時代は、そういう時代だった。

その時代に、機械を超えていた人間が、フロアにいたのである。

係長の名人芸は、機械の代わりではなかった。当時の機械を、ほとんど唯一、超えていた人間業だった。彼の頭の中の構造を、機械が再現できるようになるには、もう何年も、十数年も先まで待たなければならなかった。あの係長の存在は、人間という装置の、ある種の最高峰だった、と今の自分は思う。

◇ ◇ ◇

年度計画が締まると、フロアにはいつも、安堵の空気が広がった。

徹夜続きで疲れ切った若手たちが、ようやく家に帰れる。机の上のマトリックスの紙の束は、保存版として整理され、コピーが各部署に回される。来年の今頃、また同じことが繰り返される——それを覚悟しながら、若手たちは、その日の夕方、ようやくフロアを出ることになる。

係長は、最後まで、フロアに残っていた。

締まった集計表に、最終確認の判を捺し、本社の各部署に発送の手配をする。それまでは、仕事は終わらない。若手が次々に帰っていく中で、係長は、机の上の紙の整理を、淡々と続けていた。あの背中を、何度も覚えている。働き方改革も、残業規制も、まだなかった時代の、年度計画明けの一人の係長の背中——あれもまた、自分の中に深く沈んでいる風景の一つである。

係長の名前を、ここに書くことは、しないでおく。

名前を出すよりも、ただ「係長」と書いたほうが、あの人の存在には、ふさわしい気がする。実名でも、仮名でも、あの人の名人芸の輪郭は、よく描けない。「係長」という普通名詞のままで、机の上に世界の数字を眺めて、一発でずれを当てた人——それが、彼の最も正確な姿である。

◆ ◆ ◆

今になって、不思議に思うことがある。

あの係長の頭の中の構造は、今のAIの言葉でいえば、何だったのだろうか。長年の経験の中で、各国・各車種の数字の分布を、何らかの形で記憶していた。新しいデータが入ってきたときに、その記憶された分布から外れる箇所を、瞬時に検出していた。これは、現代の異常検知のアルゴリズムが、やっていることと、おそらく同じである。違うのは、その装置が、機械ではなく、一人の人間の頭の中だったということだけである。

人間の頭は、きわめて優れたパターン認識装置だった。

当時はまだ、誰もそれを言葉にできなかった。係長自身も、自分が何をやっているか、明確には説明できなかったかもしれない。「何となく、ここがおかしい気がする」——そう感じる感覚を、彼は長年の修練で身につけていた。その感覚が、二万のマスの中から、一マスのずれを当てさせていた。

機械が、その感覚に追いつくには、まだ時間が必要だった。

そしてその時間は、思っていたよりも、ずっと早く、フロアに訪れることになる。年度計画の徹夜が当たり前だった時代の終わりが、もうフロアの隅に、静かに近づいていた。北米担当の小林さんが、米国の大学から、何やら小さな機械を持ち帰る——それは、もう、目の前のことだった。

あの小さな機械が来る前夜の、最後の年度計画の徹夜が、いま、自分の記憶の中で光っている。

電卓の王様だった係長と、二万のマスと、徹夜のフロアと、コーヒー缶の並ぶ机の上——あれが、人間の指と頭が、世界の数字を仕切っていた、最後の時代の風景である。半世紀近く経った今、その風景を思い出すたびに、自分は、あの係長に、もう一度、深く頭を下げたくなる。

(つづく) R080505
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